社会人になってよく考えることがある。「仕事中に個人として意見したり行動することって、そんなに良くないことですか?」たとえば、あるミーティングで、私自身の意見を述べるときに、必要以上にプレッシャーを感じて「私個人の意見としましては……」なんて、いきなり真面目口調になってしまう。また、ミーティング後に上司から「会社の発言となるから、勝手な意見は言わないように」と注意された時にたまに感じる違和感はどこから来るのだろうか。
最初から小さな悩みの吐露ではじまり恐縮だが、個人として、会社の一員として、日本人として、大人としてなど、日々の生活のなかでいろんな文脈に配慮しながらの行動を求められることに窮屈に感じることがあるのだ。その配慮が何のためのか、また何を生み出すのか、漠然とした気持ちに答えを探して本と向き合うことが最近多い。
本書『ロレンスになれなかった男 空手でアラブを制した岡本秀樹の生涯』のなかで強く印象に残ったことは、岡本秀樹という人間が、最後まで「個人」として、世界を舞台に闘ったことだ。彼の発言やエピソードから、彼が「個人」として行動することに人一倍意識していたことが読み取れる。本書は、上記に書いたような、漠然と抱いていた帰属意識や無意識に従っている文脈に対して、一石を投じてくれる一冊であった。
岡本秀樹は、1941年に岡山県美作市に生まれた。厳格な父から頻繁に受ける暴力と地元の悪ガキ連中との喧嘩に負けないよう、中学で柔道を学び、高校へ進学すると町の空手道場に通い始める。そこでは、空手の手ほどきを受けると同時に、先輩の民族主義の影響を受け、日本人とは何か、民族主義とは何かについて、考えるようになる。
国士舘大学へ進学し、空手道部を新設する過程で、日本空手協会との付き合い始まる。研修を終え、空手指導員としての活動が開始。しばらくしたころ、海外技術協力事業団(1974年より、国際協力事業団(JICA)に変更)から日本空手協会に対し、シリア・ダマスカスに空手指導員の派遣依頼があり、岡本が抜擢される。ここから、岡本とアラブ諸国との付き合いが始まった。
1970年にアラブに渡り、シリア、レバノン、エジプトを拠点に約40年にわたって空手の指導を行った。初任地のシリアでは、当時、柔道の知名度があるものの、空手は誰も知らず、全く素地のない状態でのスタートたった。ちなみに、現在の中東・アフリカ地域の空手人口は200万人を超えているが、その源流は彼に通ずる。
いかにして空白地帯に空手を根付かせたのか、本書の読みどころの一つである。彼は決して計画的に物事を進めるタイプではない。彼の並外れたエネルギーや、外交官に堂々と喧嘩を挑む胆力など、彼自身の個性が現地の人を魅了していくのである。
岡本は、中東で空手を広めるという輝かしい経歴を持つ一方で、根っからの商売人としての別の顔がある。(彼の実家はスーパーマーケットだ。)輸入が禁じられている外国製品を闇ルートで販売し、一時はカジノも経営している。事業に失敗し、国外退去命令を受ける寸前まで追い込まれた。国や大企業を相手に奔走する、岡本らしい発言がある。
「常識を生きる人生なんて、どれだけ価値があるのですか。非常識の中に可能性を探す方が楽しいじゃないですか。ダメで元々、万が一にもそれで事態が動けば、こっちのものです。(中略)ただ、国や大きな企業を相手に一人で生きていくには、穴馬に賭けるしかない。勝つであろう方に張っていては、いつまでも配当金は回ってきません。」
岡本の人生を辿ることは、当時のアラブ諸国の歴史を辿ることでもある。アラブ全域に絶大な影響力を持つエジプトの大統領、ガマル・アブドル・ナセルの急死(1970年9月)。第4次中東戦争(1973年10月)。レバノン内戦の勃発(1975年)。イラク戦争の勃発(2003年)。岡本にとっては、政府高官であろうと、市井の人であろうと、空手で平等に繋がっている。生徒が内戦に巻き込まれていく状況を、どんな心情で見つめていたのだろうか。
著者は、岡本に出会った当時、新聞社のカイロ特派員としてイラク戦争を取材していた。岡本と共にアラブの空気を吸い、友人として彼の葛藤を身近で見ていた著者だからこそ書き上げた渾身の一冊である。岡本秀樹の生涯を映し鏡としたとき、読者には何が見えるだろうか。
中東情勢を勉強するのに外せない一冊。レビューはこちら。