弁当といえば、高校時代を思い出す。ある日、一心不乱に弁当をかっ込みながらふと顔をあげると、弁当箱のふたで手元を隠して食べる女の子が目にとまった。なぜあんな食べ方を? 気になって背後からそっとのぞくと、煮物の汁が茶色く染みたごはんが見えた。ミニトマトやブロッコリーのような彩りのない地味な弁当だった。
途端に動揺してしまった。自分の弁当も似たようなものだったからだ。田舎育ちの母が好んで弁当に入れるフキやタケノコの煮物が急に恥ずかしいものに思えた。弁当を通して、これまで意識することのなかった自分の姿を目の当たりにさせられた気がした。
著者はカメラマンの夫とともに、ANAの機内誌『翼の王国』の人気連載「おべんとうの時間」を手掛けている。取材をして文章にまとめるのはライターの彼女の役割だ。
近年、ブログやSNSに自作弁当の写真を載せる人が増え、弁当がブームになったことは記憶に新しい。だがブームになるほど著者は居心地の悪さを感じたという。弁当と愛情がいつもワンセットで語られるからだ。本当にそう単純なものだろうか。「弁当ブーム」の先駆けとして受けた取材でインタビュアーが「やっぱり、弁当にこめられているのは愛ですよね」とまとめようとするのにも著者は戸惑う。
実は著者はずっと弁当が嫌いだった。中学1年の頃、残り物のカレーだけが詰められた弁当を男子にからかわれて大いに傷ついた。ところが母親に抗議しても通じない。毎晩、同じものが食卓にないと不機嫌になる変わり者の父親と向き合うので手一杯の母は、娘の弁当にまで気が回らないのだ。マグロに少し筋があるだけで両親のけんかが始まってしまう。一人娘の著者は大急ぎで夕飯を済ませ部屋に逃げ込む。前の晩のおかずを詰めた翌日の弁当は、父の怒りや母の哀(かな)しみを吸い込んだような湿っぽい味がした。
そんな著者の人生を変えたのが、後に夫となる「サトル君」との出会いである。顔を合わせるたびに「今日、何食べた?」と聞いてくる人だった。彼を通じて著者は食べることの楽しさに少しずつ目覚めていく。それは、日常生活の中に彩りや潤いを取り戻すことにもつながっていた。
結婚後にサトル君が、弁当を作る人ではなく食べる人を撮りたい、と打ち明けたのがすべての始まりだった。食べる人を切り口にした弁当の本はまだない。誰もやったことのない試みだ。手探りで、取材に応じてくれる人を探し始めた。子どもの頃、幸せな食卓を経験しなかったことに劣等感をおぼえることもあったが、懸命に依頼の電話をかけ続け、幼い娘を連れて「家族巡業」のように全国を取材して回った。これが後の「おべんとうの時間」につながっていく。2007年から始まった連載は現在も続く。弁当が著者の人生を変えたのだ。
弁当は面白い。弁当をめぐる話にも弁当そのものにも、一つとして同じものはないという。その向こうに見えるのは、この時代を生きる人々の日常だ。喜びも哀しみも、弁当から透けて見える。本書を読み終えた時、高校の教室の光景が甦った。彼女はどうしているだろう。弁当箱を開けた時に笑みがこぼれるような人生を送れているだろうか。
※週刊東洋経済 2020年7月18日号