偉い人がいたものである。江戸時代、文政年間から大正元年まで生きた医師・関寛斎。あまり有名とはいえないが、その人生はすごいの一言だ。
上総の農家に生まれ、儒家に養子として入り、世の中の役にたちたいと、蘭方医学の塾兼診療所であった佐倉順天堂に学ぶ。とりわけ貧しい塾生であったが極めて優秀で、塾の創始者・佐藤泰然の弟子として、手術などの記録を「順天堂外科実験」に残している。
泰然の推挙により、濱口儀兵衛商店(後のヤマサ醤油)当主・濱口梧陵に請われて銚子で医院を開業する。さらに、濱口の援助を受け、長崎でオランダ人医師・ポンペに学ぶ。そして一旦銚子へ戻るも、徳島藩に請われて典医となる。
典医のうちただ一人の蘭方医とし相当に苦労したが、藩主・蜂須賀斉裕の信頼は厚かった。その藩主を看取った直後、戊辰戦争に官軍側で従軍する。奥羽出張病院頭取として、病院運営に苦労しながらも、敵味方なく治療にあたった。望めば新政府での栄達も可能だったが、徳島に戻り、徳島藩医学校を創立して校長に就任する。
佐倉順天堂と長崎で共に学んだ友人、泰然の子・松本良順は、幕軍側で戊辰戦争に臨み、戦後に投獄される。戦後、自らが不利益を被ることを承知で、良順の赦免嘆願をおこなった寛斎。患者のために誠心誠意だっただけでなく、その男気ある意志も抜群に強かった。
いくつかの問題から医学校の校長を辞し、そのまま徳島で開業する。そこでは、貧しい患者からは治療費を取らない赤ひげのような診療をおこない、「関大明神」とまであがめられていく。
と、ここまででもかなりなのだが、さらにすさまじいのはここからだ。70歳にして、札幌農学校の学生であった四男・又一に共鳴し、北海道の開拓を志し、72歳で厳寒の地、北海道陸別町・斗満(とまむ)での開拓事業に乗り出す。
トルストイに影響をうけ、徳冨蘆花と親交を結び、アイヌの人たちとも平等に暮らす理想郷作りを目指したのだ。しかし、家族との対立などがあり、82歳で服毒自殺。どうです? すごい以外の言葉が見あたらない。
その間、12人もの子どもをもうけている。この本を読んでいると、寛斎の妻・あいはどんな人だったのかという興味がふつふつと湧いてくる。その生涯を描いたのが『あい 永遠に在り』だ。
NHKのドラマにもなった『みをつくし料理帖』や『銀二貫』の高田郁の作品である。さすがにうまい、あざといくらいにうまい。あいについての資料はほとんど残っていないらしいが、こんな人だったに違いないと思えてくる。
吉村昭が『暁の旅人』に描いた、寛斎の二歳年下の友人・松本良順の人生も波瀾万丈だ。しかし、こちらは寛斎と違い、後に陸軍軍医総監となり、男爵へと栄達する。個人的には吉村の作品の方が好みだが、良順と寛斎を描く司馬遼太郎の『胡蝶の夢』(新潮文庫)と読み比べてみるのも面白い。
『日経ビジネス』7月6日号から転載
寛斎の妻、あいを描いた高田郁の小説。石川さゆりの歌芝居が予定されていましたが、新型コロナウイルスのせいでお流れに。いずれ上演されるかも。
国手、松本良順の生涯を描いた本。良順の生涯も寛斎に劣らずすごい。それぞれの生涯を考えると、良順が光で寬斎が影ということになるのでしょうか。
同じく松本良順を描いた長編小説、全四巻。関寛斎が準主役です。吉村昭と司馬遼太郎という歴史小説の大家二人がとりあげたということだけで、松本良順の人生がいかにダイナミックなものだったかがわかります。小説の出来、良順の描き方は吉村の方がうまい。(←個人の感想です)