昨年、石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞を受賞した、毎日新聞の好評連載「公文書クライシス」。本書はその取材班が、取材の手の内を明かしながら、ふたたび公文書の闇を照らし出したレポートである。記者たちは今なお取材を続けており、その追及は凄みを増している。記事を読んだ方にも、間違いなく一読の価値がある本といえる。
またもう一つ、本書の大きな読みどころとなっているのが官邸と記者との生々しいやりとりだ。さすが、記者の手でまとめられた文章だけあって、構成と筆致が素晴らしい。森友や加計、桜を見る会の問題で、公文書に対する疑心暗鬼が生じている私たちにとって、今まさに読んでおくべき一冊だ。いきなり結論めいて恐縮だが、その現状について本書にはこう書いてある。
公文書管理法は第1条で「公文書は健全な民主主義の根幹を支える国民共有の知的資源として、主権者である国民が主体的に利用しうるもの」と定めている。つまり、公文書は民主主義制度にとって欠かせないもので、国民のためにあるということだ。しかし、政府で働く人々にこうした意識があるようにはみえない。 ~本書「あとがき」より
つまり「公文書は民主主義に不可欠だが、政府にはその認識がない」と断言しているのだ。私があえて結論から始めたのは、深くて広いこの問題の根を丹念に探っていくことこそ、本書の肝だと思ったからである。本稿では、取材班が最も鋭く追及している「公文書ガイドライン(2017年12月改定)の実態」を中心に取り上げたい。
重要な打合せをした時に「日時・参加者・主なやりとりの概要」を記録することが、この改定ではじめて義務づけられた。加計学園問題がきっかけである。安倍首相本人も、これにより公文書管理の質を高める旨、会見で語ったという。その義務がなかったことに、かえって驚かれた方もいるだろう。政策決定の過程を残すのは当然のことと思われる。
しかし、である。改定後1年間の「打合せ記録」を官邸に請求したところ、「不存在」という回答がきたという。驚くことにガイドライン改定後も残されていなかったのだ。この事実は2019年4月に毎日新聞で報道された。翌日、菅官房長官の定例会見で東京新聞の望月衣塑子記者が質問する姿が話題になったため、ご記憶の方も多いかもしれない。
ガイドラインには反していない、という答えで官邸側は押し切った。ガイドラインに解釈の余地があるため、可能な芸当だ。いつものことながら、モヤモヤを残す会見だった。だが、ここからが本書の本懐である。「官邸はなぜ記録を残さないのか─」「なぜ形だけのガイドラインが生まれたのか─」その理由を緻密に浮き彫りにしていく。
取材班の聞き取り対象は、現役官僚や改定に関わった有識者、元首相秘書官、首相経験者など多岐におよぶ。そしてついに、改定までの経緯が書かれた約3000枚の資料を、改定に主要な役割を果たした公文書管理課から入手したのである。そこには、改定案に対する各省庁の「本音」が書かれていた。その「本音」とは、どのようなものなのか。
定義があいまいだと、つくる必要のある記録が際限なく増えてしまい、業務がパンクしてしまう。だから対象文書をしぼるために定義を具体的にしてほしい。それができないのなら、つくらなかったことがあとから問題になってもわれわれは責任をとらない──そう言っているのだ。 ~本書第九章「謀略」
ここにある「定義」とは、記録を残すべき“重要な打合せ”とは何か、という定義である。規定では「方針に影響をおよぼすもの」と書かれている。しかし、具体例が示されておらず、運用は現場の判断に委ねられているのだ。しかも、記録は打合せをした両者による内容確認を義務付けている。果たして、打合せ後に首相に確認を取れるだろうか。
環境省、厚生労働省、法務省などから寄せられた実際のコメントが本書には掲載されている。各省庁の具体的なコメントをここで列挙するのは控えるが、そのいずれもが生々しく、実に興味深いものだ。やがて記者は、不思議なことに気づく。有識者会議の議事録に、この各省庁の意見について議論された痕跡がなかったのだ。
記者は、有識者会議の委員にこの資料をぶつけてみた。すると委員は初見であることを認め、その中に「規則の運用に裁量的な余地がある場合、易きに流れるのが普通だ」という省庁の指摘を見つけると、「これはすごいね」とつぶやいたという。この指摘は「曖昧な定義では、記録を作らなくなる」という、現場からの警告なのだ。
しかし、この警告は無視された。それはなぜか─。記者は、公文書管理課に追及の手を伸ばす。管理課の回答は次のようなものだった。「意見照会は用語の使い方を確認するためのもの」「そもそもブレーキを踏むような意見は出せない情勢だった」そしてなんと「委員会に言われたら出していたかもしれない」と責任転嫁ともとれる発言がでてきたのだ。
ここまで、ガイドライン改定の経緯とその後の状況をみてきた。これが、キャリア官僚の仕事だと思うと私は暗澹たる気持ちになった。忖度にとりまかれ、正気ではヤッテラレナイ仕事になってしまっているのではないだろうか。これは、国にとっての重大危機だ。官僚の心のうちに思いをはせた言葉を、本書の最終章から引用したい。
官僚も人間だ。記録を出せば左遷され、家族につらい思いをさせるかもしれない。同僚にも迷惑をかける。そう思う一方で、公文書の隠ぺいは国民への裏切りであることも知っている。だから苦しい。首相夫人がからむ森友疑惑では、どうすることもできず、自ら命を絶つ官僚まで出てしまった。 ~本書終章「焚書」
「だから苦しい」という言葉が、私の胸を衝いた。私はこの現状を改める必要があると思った。さもなければ、成行きで生まれたガイドラインが「苦しみ」を背負う官僚をただ増やすだけの結果になる。しかし、政府の公文書への態度は、今に始まったことなのだろうか。もともと、公文書は日本でどのように扱われてきたのだろう。
その点について、本書には次のような事が書かれている。「首相の資料を保管する公的なルールはない」「民主党への政権交代時には自民党時代の資料を捨てていた」「敗戦時には戦時中の資料を焼いていた」公文書が国民共有の知的資源だという認識が、そこには感じられない。公文書を保存する認識がそもそも薄かったようである。
総理との面談記録を残しておく発想はない。(本文183ページ)
──現職官僚
この歴史に「公文書クライシス」報道は一石を投じた。その異議は、果てしなく大きい。ただ我々は、ガイドライン違反の問題に終始せず、「公文書軽視」という根深い問題に向き合いたいものだ。そして、諸外国の事例を調べあげて最適なシステムが完成した時にはじめて、取材班の多大なる労が報われるのではなかろうか。