子供から「赤ちゃんはどこから産まれるの?」と訊かれたら、どう答えるだろうか。一般的には「コウノトリが運んでくるんだよ」と答えることになっている。本書のテーマである芸術的創造も神聖化されることが多い。しかし本書は、黙ってお母さんのお腹を指さすアプローチだ。「芸術的創造がどこから産まれるのか」について、最新研究に基き核心に迫っているのである。
様々なレビュアーが、次々とノンフィクションを紹介していくHONZ。そこで気になった本を読んでいくと、幅広い知識に触れられる。そしてそれは、睡眠などを経て潜在記憶として蓄積される。本書の最終章では、そういった潜在記憶と創造性の関係を展望している。楽しみながら蓄積された記憶から創造が生まれるとは、なんとオトクなことなんだろう。
著者自身、8歳から作曲を学びその後も様々な音楽理論を学んできたが、即興演奏が得意だったという。即興の源は、理論とは違う何かである。そして今、外来的な論理ではなく内面的な経験・体験・感性を重視する手法で、神経生理データから脳の創造性をモデル化する研究を行っているというから面白いではないか。本書の趣旨について、こう説明する。
近年、脳科学や人工知能などの発展とともに、創造性の問題を科学的に論理付けようという試みが増えています。本書は、筆者の研究分野である「脳の潜在記憶」の観点から、特に「音楽」の創造性がどのように生まれてくるのか、脳科学や計算論、人工知能に関する論文を通して探求した本です。 ~本書「まえがき」より
本書をめくると、まず「ワラスの創造性が生まれる4段階」が目に入った。「準備期」「あたため期」「ひらめき期」「検証期」の4段階である。これを見て、いま私は「あたため期」にいる、と直感した。私は芸術家でもなんでもないのだが、これによって“内発的に”本書を読むスイッチが入った。本書を引用しつつ、その理由を簡単に説明したい。
職場で長い時間仕事をし、ちょっと時間が空いたかと思えばスマホを開き、仕事が終わって家に帰ったかと思えばテレビやYouTubeを見て、気づいたら寝落ちしているという生活が多いのではないでしょうか。 ~本書第4章「発想力を身につける生活習慣」
私もこんな生活だった。でも、ここで書きたいのは、この生活習慣の是非ではない。私はその生活に一区切りをつけ、これまでとは違う生活を送り始めた只中にあるという事実である。ちなみに私は、すぐに次の生き方を探そうと思っていた。でも残念ながら、そうは問屋が卸さなかった。外出自粛で何もできずにいるのだ。
しかしそのおかげで、本書の「あたため期」にピンと来た。売上・利益・効率を求める収束的思考や人の評価や金銭的なものから離れて、子供たちが繰り広げる「内発的な意欲」に基づく生活を見つめている。次の生き方という「解」すら求めていない。本書では、子供のような「内発的な意欲」の重要性について次のように書いている。
外発的意欲では、仕事を早く終わらせるためやテストで高得点をとって褒められるために、最も効率良く、そして早く終わらせられるような手法を考えるでしょう。これは、いわゆる収束的な方向に動くことに相当します。一方、内発的なモチベーションでは、既に知っていることからは知への喜びは得られませんが、未知の新しい現象に目を向けてそこから何かを得ることで、知への喜びとなります。 ~本書第4章「発想力を身につける生活習慣」より
先生に褒められるとしても、わかりきった「ひらがな」を何度も書き続けるワークは小1の息子には「地獄」なのだ。声をあげて逃げ回っている。その一方で、新しい恐竜の図鑑やベイブレードが届くのを“眠れなくなるくらい”楽しみに待っている。その姿はあたかも、不確実なもの、未知のものに対する、新鮮な感動や喜びで満たされているようだ。
既知で確実なものと、未知で不確実なものとの関係性を本書ではエントロピーという概念を使って説明している。不確実性が高く未知なものはエントロピーが高く、内発的な意欲(知的好奇心や喜び)が働く。また、表現には不確実性を下げよう(収束化)という意欲と不確実性を上げよう(拡散化)という意欲があるという。あらためて、本書から引用する。
普遍化しようという収束的思考に低次構造の潜在記憶が関連し、そこから逸脱して個性を出そうという拡散的思考は高次構造の潜在記憶が関連していると考えられます。つまり、高次のより深い潜在記憶から「芸術的創造性」が生まれてくるのかもしれません。 ~本書第7章「潜在記憶研究の進展へ向けて」より
先ほどの「創造性が生まれる4段階」に加えて、顕在記憶と潜在記憶、収束的思考と拡散的思考、そしてエントロピーという概念。それらを、睡眠などの日常行動を通じて脳がどのように扱っているのか、本書では丁寧に説明していく。そのフレームを使い、自らの思考を客観視して行動を変えることで、意図して「ひらめき」を作れるのではないかと私は考えた。
著者の研究の中心はクラシック音楽だが、私はさほどクラシックを知らない。でも、他の分野で好きなアーティストは存在する。エッセイなどで彼らの発言を読むと、曲を作ったり小説を書いたりする時間だけでなく、一見無関係の時間をも大切にしていることがわかる。一流は、意図して「あたため期」を作っているのかもしれない。
私はいま、これまでの思考の枠を次々と洗い流している。上司も部下もいなくなった。曜日感覚もなく、消費もほとんどしていない。一歩一歩、ゼロに近づいている感じがする。子供たちと内なる声に耳を澄ましている。その果てには何が見えるだろう。その源は潜在記憶なのか。気が向くままに音楽や映画や文学に触れつつ、50歳のハローワークは続いていく。
最近、体力作りのため散歩している川辺で、釣りをしている人をよく見かける。ウナギやクロダイやスズキが釣れるらしい。川の向こうに見えるのは『青べか物語』の舞台となった漁師町だ。ひらめいた!残りの人生は、釣りでもして過ごそうか。でもこれを家族に話すと、大切な何かが崩壊してしまいそうだ。よし、次の「ひらめき」を待つことにしよう。