この『今日のわたしは、だれ?』は、2014年に58歳で若年性の認知症の診断を受けた女性が綴ったブログ記事を中心にまとめたエッセイ/体験記である。
認知症といえばしだいに記憶が失われていき、簡単な単語が思い出せない、見えているはずのものが見えなくなる、「わたし」そのものが壊れていくような病気として知られている。本書の著者ウェンディ・ミッチェルは、認知症を発症する前は国民保健サービスでバリバリ働く知性的な人間として知られていた。だからといって彼女がそうした病気の流れに逆らうことができるわけではなく、徐々に記憶が、能力が失われていく過程が本書には克明に記されていく。
記憶が失われていく状態にある人間が、そんな自分の状態を文章に落とし込めるものだろうかと疑問に思うかもしれない。が、本書には幸いにもその光景がクリアに描きこまれている。ある時突然前は覚えていたはずの簡単な単語が思い出せなくなる恐怖。死んだはずの自身の母親がみえる。自転車でなぜか右に曲がることができない。そうした異常事態を前に、混乱し、立ち止まって、「何が起こっているのか」と自問自答しながらその恐怖をしっかりと書き残していく。
認知症患者がどのようなことに困っていて、彼らはいったいどのような世界を見ているのか。何をしてもらったら嬉しくて、何が悲しいのかといった彼らから見えている世界。そして、認知症はただ喪失の過程であるだけではなく、楽しいことも楽しめることもまだまだたくさんあって──とポジティブな側面についてたくさん触れられているのも本書の特徴である。
認知症は恐ろしい病気だ。自分はなりたくないし、身近な人にもなってほしくないと目をそむけたくなる。でも、それは確かに存在するのだから、その時にどのようなことが起こり得るのか、知っておいても悪くはないだろう。
何が起こるのか
最初はそもそも病院にかかりはじめるところから話がはじまる。
なんだか頭がぼんやりして、集中できないことが続く日々。そんなある時、いつものコースをジョギングしている最中に突然転倒してしまう。かかりつけ医にかかっても、年齢のせいでしょうとしかいわれない。確かに58歳というのは若くはない年齢だ。
だが、ある時から舌のもつれを感じるようになり、検査入院にまで至り、卒中の可能性を指摘される。その後、「三つの単語を覚えておいてください」といわれ、その単語を時間をおいて聞かれる簡単な記憶テストを受けるが、それが答えられず、認知症の可能性が高まっていく。実際、この時すでに認知症の傾向は出始めている。著者が会議で発言中、どうしてもある言葉がでなくてどもってしまう。その会議後にようやく思い出すことができたのだが、その単語とは「and」だった──というように、物凄く一般的な言葉が思い出せなくなってしまっているのだ。
で、アルツハイマー型認知症と診断されてしまうわけだけれども、そこからは失われていく記憶との戦い、撤退戦の記憶である。勤めている会社に打ち明け、稼ぐ必要もあって自分としてはまだ働く気があるもののゆるやかに退職を促される。アガサ・クリスティーの小説を読めば、途中で出てきた登場人物が突然出てきたのか最初から出ていたのかわからなくなる。自転車に乗ってでかけるのだけど、脳の配線が狂っているのか、どうしても右にまがることができない。
窓から外を眺めた時、存在していたはずの物置小屋がなくなっていて、論理的思考力は強盗が小屋を盗んでいったのではないかと推察してパニックになりかける。しかし、同時に別の部分は突然物置小屋がなくなることなどないとわかっていて、『30分後にまたここへ戻ってこよう。それでもまだ小屋がなかったら、現実と言えるだろう。』とストップをかけ、実際に30分後に戻ってきたら小屋は変わらずそこにあった。彼女には、この手のことがよく起こるのだという。
ポジティブな側面
これらは、認知症におけるネガティブな側面といえるだろう。幻覚に惑わされ、今までできていたことができなくなる。だが、喜びがなくなったわけではない、と語る。
認知症を抱えながら生きる道はある、完全な終わりはほど遠く、終わりの始まりで、ただの読点にすぎないのだ、と。わたしは長編小説から短編小説に切り替えて、筋そのものよりもページの一節に喜びを見出だせている。詩や、幼い娘たちに読んで聞かせた本の楽しさも再発見した。いろいろ失ったが、得たものもある。そして、ふとした瞬間に、進行性の病はきわめて特殊な形で精神を集中させるのだと、わたしは気づく。こうした考えが、このごろはよく頭に浮かぶ。
自転車で右にまがれなくなったこともそうだ。たしかに右に曲がれない、だが左にしか曲がれなくとも大きく円をかけば右の方にいくこともできる。チャレンジするだけの価値はある。それができなければ家に縛り付けられているだけだからだ、といって見事成功させてみせる。非認知症患者からすればこんなのできて当たり前のことだが、認知症患者からすれば勝利の一歩であり、自由の獲得なのである。そこには、たしかに高揚がある。『わたしは顔に笑みをたたえて、あちこち出かけるだろう。またしてもアルツハイマー病の裏をかいたのだ、と喜びつつ。』
おわりに
毎日お前はばかだと言われたらやがてそうだと思いこむようになるのと同じで、認知症の病人だとしょっちゅう言われたらそう感じてしまう。だから、ポジティブな言葉をなげかけてほしいといったり、どのように接することが認知症患者にとって楽なのか、という書き込みも多く、これらは自分が(認知症を患っている人に対し)どう対応すればいいかの指針になってくれるだろう。
彼女は現在、アルツハイマー協会のアンバサダーを勤めていて、講演などで多数の活躍をしている。そのような活動を通して彼女が出会ってきた相手の中には、認知症を患った結果、スイスの安楽死クリニックにいって自分の人生を終わらせようとしている人のエピソードも出てくる。徐々に失われていく「わたし」を抱えて、残された生をどのように生きるべきなのか。
そこに普遍的な正解はないのだろう。
これは完全に余談だけど、本書を読んで思い出したのは福本伸行の漫画『天 天和通りの快男児』であった。こちらも、その最終章についてはアルツハイマーと安楽死の問題、「どう生きるのか」を扱った傑作のひとつである。思わず今回、『今日のわたしは、だれ?』を読み終わった後いてもたってもいられずKindleで最終巻付近を買って、読み直してしまった。