運動でも始めようか、せめて食生活を変えようかと決意して何回目の春を迎えただろうか。実は、腹まわりがここ5年で10センチメートル増えた。かけ声だけは威勢がいいのだが、見た目が物語るように動きが重い。私のように、いま動かないでいつ動くんだ、と思いながらも動けない人に、本書は最適な一冊かもしれない。
50歳を過ぎたオジサンが、譜面の読み方も知らないところからピアノを始め、発表会に出るまでの顛末を描いたエッセイだ。
オジサンといってもただのオジサンではない。日常生活ではピアノと全く接点がない、ヤクザ取材を専門とするライターだ。拳銃を弾(はじ)いたり、弾かれたりする現場の似合うオジサンがピアノを弾(ひ)く。山口組分裂について硬派な記事を書きながら、「ド」の鍵盤を押して「いい音」と感涙する。取材相手のヤクザの組長に「艶っぽい先生と一緒に、手取り足取り腰取りかよ」とからかわれてしまうのもうなずける。
映画『マンマ・ミーア! ヒア・ウィー・ゴー』で流れるABBAの「ダンシング・クイーン」を聴いて、なぜか涙が止まらないほど感動してしまったのがきっかけだった。著者は昔から音楽に親しみつつも、ピアノは敷居が高かった。ピアノにずっと近づきたくても近づけなかったが、大きな仕事に区切りが付いた高揚感もあり、思い立つ。ピアノは弾けなくてもいい、「ダンシング・クイーン」を弾きたい。
音楽教室に問い合わせをして、電話越しに「『ダンシング・クイーン』を弾きたいんです。弾けるようになりますか」とハイテンションで聞きまくる。ちょっと怖いし無茶苦茶だが、無茶苦茶だろと突っ込ませない熱量が本書の最初から最後まで持続するから畏れ入る。
電話をしまくった結果、「レイコ先生」と著者が呼ぶピアノの先生に出会い、最終的には発表会に出て「ダンシング・クイーン」を弾く。発表会そのものの光景も興味深い(読者特典として著者の演奏の様子を収めた動画のURLも巻末に記されている)のだが、本書の読みどころは、レイコ先生との対話だ。
「ダンシング・クイーン」弾けますよと太鼓判を押され、初回のレッスンに意気揚々と出向くと、ピアノを習いに来たはずなのに、大声で歌わせられる。
唖然(あぜん)としながらも著者は気付く。音楽って楽しいもんだったって。
もちろん、楽しむだけではピアノは上達しない。練習しなければ上達はない。練習以外に上達する近道はない。でも、まず楽しまなければ、練習は続かない。
他人にどう見られるかも気にせず、文字どおり、音を楽しむ。子供のような気持ちになる。音楽は生の拡充なんだと。
著者は冒頭に「生涯学習は素晴らしいと嘯(うそぶ)きたいのではない。何かをはじめるのに年齢は無関係と自己啓発したいのでもない」と記しているが、本書は紛れもなく、一級の自己啓発書だ。著者の意図に反して、読了後にはあなたも新たに何かを始めてみたくなるはずだ。動かずじまいの私ですらジムに入会してしまったのだから。
※『週刊東洋経済』2020年4月18日号