大学入試改革についての議論がにぎやかだ。現行の制度に多くの問題があることは間違いない。それ以前に、そもそも大学入試が目的化している教育の現状こそが問題ではないのか。
『だれもが<科学者>になれる』という書名を見た時には驚いた。科学者という生業はそんなに甘くないぞ。しかし、内容は、職業としての科学者ではなく、米国の小学校でおこなわれている「探究理科」教育についての紹介だった。
「子どもは本来好奇心が旺盛で、自ら問い、探究する科学者である」という前提での教育だ。小中学生に講義をした経験から全く同感。日本の受験勉強はその能力を破壊する方向でしかない。
子どもたちは、興味を持ったテーマについて調べながら、科学的な考え方、方法論を身につけていく。教えている方だって、知識を詰め込むだけの教育よりもはるかに楽しいはずだ。
すごいのは、その指導が単に科学活動にとどまらず、言語活動にまでおよぶところである。参考図書を読み、プレゼンし、評価を受ける。さらには、なんと、研究費の申請書作成まで。
まさに大学院教育と同じことが小学校でおこなわれている。その結果、子どもたちが大きく成長していく。なんと素晴らしいことなんだ。
文系、理系と分けること自体があまりよろしくないが、科学というと理系の営みと思われることが多い。しかし、実際には、申請書や英語論文の執筆など文系的な素養も重要である。なによりも、論理的な思考や説明にはかなり高度な言語能力がなければならない。
『ことばの教育を問いなおす』では、同時通訳の鳥飼玖美子、国語教育の苅谷夏子、教育学の苅谷剛彦が、それぞれ専門の立場から、国語教育・英語教育についてリレー形式で考察していく。
優れた国語教育によって身につくのは、コンピューターでいうところのオペレーティングシステム(OS)である、というのは目から鱗だ。理系、文系を問わずすべての学びにおけるOS。なるほど、言われてみると、真の国語力というのはそういうものであるはずだ。
英語教育改革についても、「基本的対人コミュニケーション能力」(日常の会話能力)と、より高度な「認知的学習言語能力」とが区別されないまま議論されている。など、いくつもの鋭い指摘がなされている。
ことばと科学、いずれも自発的な学びが大事である。『遊びが学びに欠かせないわけ』は、子どもたちに興味のあることをやらせ、それを年長者が教えるという教育システムの本。そんなやり方でうまくいくのかという気がするが、かなり成果があがるようだ。
真の教育はいかにあるべきか。強制的な記憶に重きを置いた受験勉強を根本的に改めるべきではないか。自発的に興味を持ち、自分の頭で考える教育をしないような国に未来はない。
日経ビジネス、2020年3月9日号から転載
苅谷夏子が学んだ大村はまの国語教育がいかに素晴らしかったかがよくわかります。
ホンマにこんなんでうまいこといくんか、という気がするけれど、この教育法の学校の進学成績もいいらしい。システムが違うから、日本ではそうはいかないかもしらんけど。
大村はまの本はたくさん出てますが、とりあえずこれをば。