この『世界を変えた150の科学の本』は、科学の歴史上重要とみられる科学ノンフィクションを150冊以上紹介した本になる。本は270ページだが、大判のフルカラーで、150冊の本の中身だったり図版だったり表紙だったりが所狭しと並んでいて、ずっしりと重厚で、中身が詰まっている。記述がおもしろいのはもちろんだが、図版などをぱらぱら見ているだけでも楽しい。
まだ本という形態がなく、石に刻みつけていたり巻物だったりといった時代から科学の本をたどっていき、最後には現代にいたり、近年の2018年に出た科学ノンフィクションも取り扱ってみせる。たとえば、最近のものだとハラリの『サピエンス全史』も(内容というよりかは、英語以外の言語から他言語に翻訳されていった特異性をもって)あげられていたりするので、いまから読むべきサイエンス本を探すブックガイドとして読んでもいいだろう。
破滅論者はいつも、本は死んだも同然などと言うが、科学書は今も健在であり、将来もそうあるべきなのだ。本質は変わったかもしれないが、人と外の世界を結びつける点においては他を凌駕し続けている。テレビ番組やYouTubeはトピックの表面を掬い取っているにすぎない。一時間の番組だって、本の1章分の内容を網羅できないのが常だ。科学書は、読者がトピックを理解するのにさまざまな方法をとることや、読者自身のスピードで情報を処理すること、そして映像やナレーションから得られるよりもずっと深く対象を理解することを可能にする。
とはいえ、読んでいてまずおもしろかったのは、科学の本を年代順にたどっていくことで科学の歴史がくっきりと浮かび上がってくることだ。歴史上重要な科学書をただ紹介するだけでなく、その時代においてどのように受け入れられていたのか。また、現代の科学からするとどこが間違っていて、どこは依然として評価できる部分なのか。150冊もの本をそうやって仔細に取り上げていく作業を一人で成し遂げているというのは、にわかには信じがたい部分もある(とはいえ、現代に近くなるにつれてなんであれが入ってないんだ、宇宙論関連の本が少なすぎるんじゃないのと文句も増えてくるが、そういう文句をつけながら読むのもこういう本の醍醐味といえる)。
「世界を変えた」本なので、内容の正しい本ばかりが挙げられているわけではない。少なからず間違いが含まれていても、「世界を変える」ことは──特に、近現代以前においては、よくあったからである。たとえば、アリストテレスの著した『自然学』。これは、アリストテレスが科学的な事象について著した書物の限界ではないが(生物学や動物学に関する本の功績も大きい)、この本がとりわけ選ばれているのは、『宇宙論や運動と力学に対するアリストテレスのものの見方が16世紀から17世紀を通じて、西洋が宇宙を理解する中心として捉えられてきたからだ。』
非科学と科学的な思想が本の中に同居していた時代
最初の時代こそユークリッドの『原論』(『永続的な影響を及ぼしている本として、紀元前300年頃に書かれたエウクレイデス(ユークリッド)の『原論』を超えるものはない』)。アルキメデスの『砂粒を数えるもの』(『『砂粒を数えるもの』では、宇宙を満たす砂粒の数を計算することにより、ギリシャの数の体系を拡張できると示している』)。ティトゥス・ルクレティウス・カルスの『事物の本性について』(『7400行に及ぶ長編詩の形をとり、紀元前3世紀のギリシャの哲学者、エピクロスの自然哲学がもとになっていた』)など、よく知られたものが多い。
だが、ルネサンス期以降になってくると知らない本も増えてきて、しかも呪術的な思考と科学的な思考のせめぎあいが科学書に混じり、より混沌としていくことになる。たとえば、1652年刊行のニコラス・カルペパー『イギリスの医師』(その後『ハーブ事典』に変更)は、薬草に特化した薬のガイドブックである。この本に載っている植物のいくつかは本当に薬効があったが、カルペパーは非科学的な占星術の影響を切り離せていない時代の人間なので、薬効に対して虚構の理由付けをしてしまっているという大きな欠陥がある。『つまり、植物の作用とそれを支持する惑星の影響とを組み合わせてしまったのだ。』このように、科学書を通して当時の世界観と科学観の混沌としたせめぎあいが伝わってくるのがまたおもしろいのである。
今でこそ化学と、生命の霊薬や賢者の石、卑金属を貴金属に変換するようなスピリチュアルに属する錬金術は明確に分かれているが、それが同時に存在していたのもこの時代だ。ロバート・ボイルは化学者であると同時に錬金術師でもあり、錬金術師的に金属を変質させようとしていたのは確かだが、彼が著した『懐疑の科学者』で彼は物質は原子でできているという見方を示し、世界の科学観をアリストテレスから大きく進歩させた。原子は化合物を形成するために結びついて、その衝突が反応として表にでてくると推論したという点で彼には先見の明があった。
おわりに
こうやってざっと科学書をみていくと、世界を変えた本とはいっても(当然だが)すべてが正しいということはない。一部は正しく世界を捉えていて、また別の部分は間違っている。だが、そうやって少しずつ再現性のある仮説を積み上げ、すべてが間違っていたとしても新しい考え方を持ち込むことで前進させてきたのが(たとえば、後に否定されるマルサスの『人口論』も、一般の読者に統計を利用するように促した最初の科学書としての価値がある)、科学の歴史なのだ。
後半になるとファインマンさんや、サイモン・シンの『フェルマーの最終定理』(『シンが『フェルマーの最終定理』で成し遂げたことはある種の神業だ。』)、『ホーキング、宇宙を語る』など、多くの人が知っている・読んでいる本が入りはじめる。現代の本については、その内容だけではなく、どのような記述のスタイルが大衆にウケるのかといった分析も入りはじめていて、そうした科学ノンフィクション史的な観点から読んでもおもしろい一冊だ。