本書は10年前に発売された安宅和人氏の名著『イシューからはじめよ』の続編とも言える、ファクトベースの現状分析に基づいた、新たな時代に向けての日本社会への提言書である。
本書の主題は、冒頭にある以下の文章に集約されている。
「ほとんどの人は、あまりにも多くのことが変数として一気に動く目まぐるしさの中で、変化が落ち着く日を待っているようだ。でも、残念ながらそんな日は来ない。世界は昔も今もダイナミックに動いてきた。これからもそうだ。僕の答えは、振り回される側に立つことをやめる、臭いものに蓋をすることはやめるということだ。・・・臭いものに蓋をしても隠し通すことはできない。必ずその現実と向かい合う日は来る。それも次世代ではない。おそらく、問題のほとんどは僕らが生きているうちに顕在化する。大切なのは、自らハンドルを握り、どうしたら希望の持てる未来になるのかを考え、できることから仕掛けていくことだ。・・・僕らは少しでもましになる未来を描き、バトンを次世代に渡していくべきだ。もうそろそろ、人に未来を聞くのはやめよう。そしてどんな社会を僕らが作り、残すのか、考えて仕掛けていこう。未来は目指し、創るものだ。」
もうこれ以上いくら待っていても、この国に明るい未来は来ないのだから、自分たちの手でもう一度明るい未来を作っていこうよという呼びかけである。
パーソナルコンピューターの父と呼ばれるアラン・ケイは、かつて「未来を予測するのに一番良い方法はそれを発明することである(The best way to predict the future is to invent it.)」と語ったが、正にそういうことである。
では、世界が目まぐるしく変化する中で、なぜ日本だけが立ちすくんでいるのか、なぜ日本だけが世界から取り残されてしまったのか。その最大の理由は、高度成長期の成功体験と「超高齢化」の進展である。
人間は40歳くらいを境に急速に保守化すると言われているが、日本人全体の年齢の中央値は既に48歳になっている。しかも1年で260万人以上、全体で806万人という団塊の世代(1947〜1949年生まれ)という大きなクラスターが重石として存在し、2019年の出生数が86万人と統計開始以来初めて90万人を割ったのと比較すると、絶対数にして3倍もの開きがある。
それ以外でも、日本の人口構成はシニア層に偏った、極めていびつな壺型になっている。勿論、歳を取ること自体が悪いというのではなく、歳を取って考え方が硬直的になり、新しい変化の兆しに気づかない、或いはその芽を摘み取ってしまうところに問題がある。しかも、そうした姿勢が、人生100年時代における自らの可能性を閉ざしてしまうことにもなりかねないのである。
本書では、人口減少社会における埋もれた人材として、①若い才能、②女性、③65歳で社会から強制退場させられるシニア層、の3つが挙げられている。政府レベルでも、女性とシニアの活用については様々な議論がされているが、若者へのサポートは引き続き大きな課題として残されており、将来の日本を支える若者の貧困問題、それに伴う教育格差、そして高等教育の国際競争力の低下など、難しい問題が山積している。
恐らく今の日本は、明治維新と第二次世界大戦敗戦に匹敵するくらいの大変革に直面しているのだろう。しかし、今回は前二者と違って平時の中で静かに訪れているため、特に日本のような島国においては認識されづらい。一言で言ってしまうと「ゆでガエル」なのだが、そうした中で、日本は若者たちの未来を搾取しながら生き長らえているのである。日本の未来を創るのは、若者であるにも関わらず。
勿論、こうした理不尽な社会構造に気がつき、何とかしなければと考えている心ある富裕層やシニア層も多いのだが、日本を取り巻く現状は、少子高齢化、社会保障、財政支出、人手不足、過疎化、地球環境、資源など、様々な問題が複雑に入り組んでおり、一体、どの問題とどの問題がつながっているのか、どの問題を解決すればどの課題が解決するのか、その構造自体が分かりづらい。そして、ともすれば、「高齢化がこれだけ進んで、社会保障費が膨れ上がっている以上、教育に回す予算は限定的にならざるを得ない」という単純化された結論になってしまう。
日本は戦後、1980年代の黄金期に至るまでの成功体験にとらわれ、その後の急激でダイナミックな世界の変化についていけなくなってしまった。他方、今、世界で起きている、計算機と情報科学の進歩、ビッグデータ時代の到来による変化はとてつもなく大きい。
情報の識別、予測、目的が明確な活動の実行プロセスはことごとく自動化されつつあり、その変化は、5年、10年で数倍というレベルではなく、指数関数的に一桁二桁という速さで変化している。我々は、リニアな思考では将来を全く読み違えてしまうような時代に突入しているのである。
こうした大変革の中核にあるのが、AI(artificial intelligence 人工知能、machine intelligence 機械知性)である。AIを分解すれば、「計算機×アルゴリズム×データ」であり、単に優秀な計算機やアルゴリズム技術を持っている、或いは単に膨大なデータを持っているだけではAIは作れない。また、特定種類のデータを幾ら持っていても、単一種類のデータでは訓練しようがないし、データを持っている人と必要な人、或いは持っている人同士がつながらなければ価値は生まれない。
これは、様々なデータを自社で持ち、それらを1社でネットワーク化してつなげられるGAFAなどのメガプラットフォーマーが圧倒的に力を持つことを意味している。どこよりもデータをつながりやすくして、データの利活用を進める国や市場が、人類の未来を生み出す場となる可能性が高いからである。
iPhoneが2007年に生まれてからわずか12年で、世界のコンピュータ出荷の約7割がスマホになり、インターネット利用の半分を超していることを考えれば、Amazon、Apple、Alphabet、Facebook、Tencent、Alibabaと世界時価総額トップ10の企業の半分以上がスマホ関連事業であるのは当然だと言える。
現代は、単にリアル空間でのスケールだけがものを言う時代は終わりを遂げ、iPhoneを生み出したスティーブ・ジョブズや、持続可能なエネルギーの世界を創ろうとしているイーロン・マスクのように、「妄想し、カタチにする」ことが富に直結する時代になった。
つまり、ハードを中心とした「実数軸」での規模感の世界から、データ、AI、ロボティクスなどの情報・新技術をベースにした「虚数軸」をかけ合わせたものが価値を生む複素数平面の世界に移行したことで、これまでは、スケールを取り、大きな売上、付加価値、そして利益を生めば企業価値につながったのが、この非連続的な変化に富む局面では、技術によって「未来を変えている感」が企業価値になり、これをテコに投資が行われ、最終的に付加価値と利益につながるという真逆の流れになったのである。
そして、こうした大きな変化を受け入れる体制が整っている社会が、本書で言う「AI-readyな社会」である。これは、安宅氏の発案で内閣府の「人間中心のAI社会原則」にも採択された、「人、社会システム、産業構造、イノベーションシステム、ガバナンスなど、あらゆる面で社会をリデザインし、AIを有効かつ安全に利用できる社会」のことで、これからの日本の進むべき方向を示すものである。
現代社会は、地球環境問題、格差の拡大、資源枯渇など、人類の存続に関わる様々な問題に直面しているが、「AI-readyな社会」は、SDGs(Sustainable Development Goals 持続可能な開発目標)に掲げられている目標を達成し、持続可能な世界を構築するためのベースにもなり得るものである。
残念ながら、日本はまだこの「AI-readyな社会」にはなっていない。そして、このような大変革の中で、日本社会を取り巻く様々な問題を解きほぐし、複合的にからまる諸問題を系統立てて整理し、物事のプライオリティづけして、日本が「AI-readyな社会」になり世界で戦っていくための処方箋を提示してくれるのが本書なのである。
本書の目次を見ると分かる通り、結論としてはやはり「人」の問題に尽きるということで、後半の教育問題、即ち「未来を創る人」をどう育てるかに半分のページが割かれている。結局、人が国を創り、人が未来を築くのだとすれば、議論の焦点は必然的に、どのように人材を育てるかに収斂して行くということなのだろう。日本の未来は、社会が「若い人を信じ、託し、応援する」ことができるか否かにかかっているのである。
一人でこれだけ多種多様な審議会や研究会や勉強会やプロジェクトに関わっている人は、恐らくこの世代では安宅氏しかいないし、その負荷に耐えて全てのインプットを一旦自分の中で咀嚼して建設的な形で社会システムデザインとしてアウトプット出来るのも、やはり同氏しかいないと思う。そうした意味で、本書の存在は貴重であり、少しでも日本の問題を自分ごととして考え、少しでも社会のために何かをしたいと願っている人にとっては、貴重な手引書になると思う。
本書が出来上がった経緯について、安宅氏本人がブログに書いているので、そちらも是非読んでもらいたい。今の日本を立て直すのに、1日でも時間が惜しいという同氏の熱い想いが伝わってくる。