ブレイディみかこが『THIS IS JAPAN』を著してから3年。アメリカではトランプが大統領となり、イギリスではメイに代わってボリス・ジョンソンが首相となった。停滞、格差、分断がキーワードとして繰り返し取り上げられる中、旧来の「右vs.左」とは異なる「上vs.下」の構図が、瞬間的には描かれる。しかしすぐさま、人々の高まった不満は、ポピュリズムの構図へと着地する。
ポピュリズムはそれ自体、悪ではない。衆愚政治や大衆迎合と訳されることもあるが、直訳すれば大衆主義となる。「エリートたちの政治はうまく機能しておらず、我々の不満を解消できていない」。このようなリアリティから唱えられる反エリート主義は、人々の政治的関心を高め、動員に成功する。
問題は、そのポピュリズムが何と結びつき、どこにいくか、だ。反移民と自国第一主義との結びつきは、今や欧米各国で観測できる。他方で、反貧困・福祉強化を訴えるサンダースやコービンといった、再燃する左派的ムーブメントも発生している。「我々の不満」に対して、どのような処方箋を提示するか。薬を欲する人々は、時に偽薬も劇薬も併せ飲む。
ここですぐさま、西洋以外の地域にも目を向けなくてはならない。例えばシリア。例えば香港。ボリビア。チリ。パレスチナ。チベット。ソマリア。ウイグル。ビルマ(ミャンマー)──。国や地域の数以上に人権問題があり、議会制民主主義や対話がそもそも機能し難い状況が今なお続いている。欧米で起きていることだけをもとに、図式的な普遍主義を語ることはできない。各国の状況を見比べる、グラスルーツの目線を重ねること抜きに、社会の展望を描くことはできない。
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日本では、公文書問題や閣僚の「政治とカネ」問題が相次いだが、安定した支持率で安倍政権が続いてきた。リーマンショックからの回復を経て、経済状況が改善していることから、現状への不満が高まり難いこともあるだろう。明らかな弛緩が放置されていても、代替野党が育たなければ、「他にいないから」と現状維持となる。そこでは批判的思考よりも、権威主義とシニシズム(冷笑主義)が育てられる。
景気低迷からの回復に失敗した麻生政権を経て生まれた民主党政権も、一つのポピュリズム現象だった。生活第一を掲げて人気を獲得したものの、すぐさま緊縮と包摂の矛盾にぶつかった。果てに、野田政権時の税と社会保障の一体改革。その中での消費増税は、安倍政権においても撤回されることなく維持された。「民主党政権と安倍政権」は一対の現象だ。
金融政策は行うものの、大規模な財政出動を行わない安倍政権に対し、リベラルなメディアですら、反緊縮という声はあげなかった。「財政赤字に立ち向かえ」「将来にツケを残すな」という美しい言い回しで、むしろ緊縮路線を支持している。特に新聞は、「責任」という言葉を用いて、人々に「痛み」を押し付けるのが好きだ。自分たちはちゃっかりと、悪名高き「軽減税率」という毒饅頭を喜んで頬張っているが。
ポピュリズムの受け皿としては、都民ファーストの会、NHKから国民を守る党、れいわ新選組といった、新たなプレイヤーが、その都度出現している。代替となる党はまだ育っていない。日本での、グラスルーツを重ねて厚みのある政党政治へと育てていく必要性は、一層高まっている。
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さてここまでは、本書を読むための最低限の補助線だ。こうした現状で、何を書くか。ニュースを共有するジャーナリストや、概念を共有する評論家と異なり、ライターのブレイディみかこは、風景を共有する。何かを語り、変えようとするためには、風景が共有されなければ始まらない。
ヨーロッパでも、一人の子供の死が、その写真という風景が、移民擁護の議論を強化した。日本でも、虐待死の事件が、繰り返し報じられた風景が、児童相談所や保育の拡充を求める議論へと接続した。彼女が取材対象としている路上では、「年越し派遣村」などの風景の共有が、政権交代を支えるリアリティにもなっていた。風景の共有は、議論の礎となる。
本書で主に取り上げられるのは労働問題。ブレイディは、個別の現場に足を運び、視点の高さを操りながら語ることで、読者の解像度を上げてくれる。解像度の高い風景を共有することで、「あれ、どう思う?」と問いあう議論が成立する。
彼女には、ラジオ番組「荻上チキSession-22」に何度かゲスト出演をしてもらったことがある。『女たちのテロル』(岩波書店、2019)を下敷きに、金子文子やサフラジェットの話題を取り上げた回のCM中には、伊藤野枝の話で盛り上がったのを覚えている。『いまモリッシーを聴くということ』(ele-king books、2017)の話をした際には、人が人を嫉む力の強烈さについても雑談を交わした。
彼女が駆使するのは、大衆思想だ。フーコーやカントといった大きな天才の言葉を使うのではなく、もがき続けたアクティビストや表現者の言葉に惹かれているように思える。あらゆるものをパッチワークするのは、抵抗文化の基本だ。日英の大衆思想を往復することで、凝り固まりつつある言語体系を攪拌することが、ブレイディの得意技である。
初めてお会いした時から、距離感の取り方が不思議な人だなという印象がある。前から知っていた親戚のような温度感。卓球パートナーのように、心地よい言葉のラリーが続く。物腰と頭の柔らかさ、足腰の強さ。そうした武器が、彼女の筆力を支えているのだろう。
単行本版が出てから文庫版が出るまでの間に、チャイルディッシュ・ガンビーノの「This is America」という曲が大ヒットした。アメリカの黒人差別や銃社会について、戯画化されたミュージックビデオのセンセーショナルな表現が話題になった。ブレイディの筆致に、戯画化はない。ウェブ空間ではしばしば、目を覆いたくなるような国内ニュースが報じられるたび、(映画『アベンジャーズ』の日本版コピー「日本よ、これが映画だ。」をパロディして)「世界よ、これが日本だ」という自虐的文句が書き込まれる。だが、『THIS IS JAPAN』には、嘲笑的な意味合いもない。
例えば本書でも紹介されているように、日英双方に、保育文化の長所と短所がある。出羽守として一方的に「進んでいるあちらの国(を知っている進んでいる自分)」をプレゼンするのではなく、日本にはイギリスを、イギリスには日本を紹介する形で、それぞれの文化圏を思考のテーブルに載せる。彼女は読者を、対等な相手としてみている。海外にも、日本にも、そして『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』(新潮社、2019)に描かれたような、未来の社会を生きる若者にも。全ての人に、「これが、今の、日本だよ」と等身大を提示する。
数々のエッセイを書きつつ、一人の市民としても、日本の反緊縮運動などにコミットする。緊縮を求めてきた清貧なインテリ左派ではなく、反緊縮を訴える泥臭いアクティブ左派というロールモデルを、その身をもって示してもいる。少なくとも現代日本の表現世界においては異色な書き手である。
なお、本書に登場する映画『SUFFRAGETTE』はその後日本公開されたが、その際には「未来を花束にして」というジェンダー化されたタイトルがつけられたことについて、不満を述べる人が少なからずいた。ケン・ローチの『わたしは、ダニエル・ブレイク』も日本公開された。『万引き家族』の是枝裕和監督との対談模様がNHKで特集され、政治的課題を指摘すると「愛国的でない」という批判が来る現状で、表現者の矜持を確認しあっていた。
今、日本では排外主義的な言説に加え、リベラルやフェミニズムに対する「アンチ」の言説も育っている。野党議員も、「自分は保守」とアピールすることに余念がなく、レフトだと見なされることは侮辱と捉えている向きもある。
本書が指摘するような中流意識が雲となり、格差や貧困を覆い隠しているフェーズから、露悪意識さえ欠けたむき出しの攻撃が暴雨のように加速した時。真ん中であること、どっちもどっちであること、表面的な和を以て貴しとしてきた人々が、排斥や不正義を黙認することにもなりかねない。その時が来ないように、あるいは来たとしてもプロテストできるように。ブレイディみかこは、歴史を紡ぎ、海を越え、言葉の種を社会に蒔く。
(令和元年十一月、評論家)