経団連(日本経済団体連合会)の1次集計では、大手企業に限れば冬のボーナスの平均額は過去最高なのだという。ほくほく顔の人もいれば、まったくピンと来ない人もいるだろう。不思議なことに、収入が少なくても貯める人は貯めているし、多くもらおうがカネがない人は常にない。それは会社員でも一芸に秀でた人でも同じであることが本書を読むとわかる。
作家の「お金」にまつわる約100編の文章を集めた。窮状を嘆く者もいれば、いかにカネを儲けるか、どのように使うかについて熱く語る者もいる。
夏目漱石の弟子の内田百閒は「こればかりは、どんな事があっても手放すまい」と思っていた漱石の掛け軸を困窮から泣く泣く売るいきさつをつづる。直木賞の由来にもなった直木三十五はいかに働かないでカネを得るかを力説。池波正太郎はサービスを受けたときに少しでもいいから心づけを渡せば皆が上機嫌になり、社会全体がよくなると語る。
後の大家にもカネを持っていない時代やカネがないことを思い悩んだ時代があった。村上春樹は道ばたで3万円をネコババし、芥川龍之介は原稿料の思わぬ安さに落胆する。カネで買えないモノはないといったら言いすぎかもしれないが、大抵のモノはカネで買える。だから、多くの人はカネで悩み、つまずき、転ぶ。
カネをたくさん持っていることが人生の幸せではないと改めて思わせるのが、角田光代。長年つけている家計簿を見返すと、20代は収入がどんなに少なかろうが、酒代だけはケチらなかったことに気づく。毎夜のように酒を飲み、人生の諸問題に悩み、ああでもない、こうでもないと友人知人と語り合っていたあの頃。
はたして何かしらの解が導き出されたかというと怪しいが、結論の出ない話を肴に飲み尽くし、語り尽くしたことで、30代になり、仕事に追われ、バカみたいに飲むことがなくなっても、人生に悩むことがなくなったとか。あのカネは生きたカネだったと振り返る。
エッセーが中心だが、手紙や日記も収められており、より赤裸々に懐事情が明かされている。恥も外聞もなく、誰もが無心、無心、無心。書いた本人は、後にこのような形で公開されるとは思っていないから、こちらは見てはいけないものを覗く背徳感も味わえる。太宰治は「生涯いちどの、生命がけのおねがひ申しあげます」と仰々しい書き出しで始めて、カネを貸してくれなければ「私、死にます」と迫る。大胆というか不遜というか、ただただ迷惑というか。
詩人の萩原朔太郎は新潮社に印税の前借りを頼んだが断られ、室生犀星に君が「よけいなおせつかい」をしたからだと憤慨する。逆恨みも甚だしいが、カネの恨みはいつの時代もやはり怖い。坂口安吾のように、借りたカネを全部飲み代に使ってしまったから返せないと開き直り、「近況御知らせまで」と私信を送る者もいるが。
「カネには色がない」とよくいわれるが、使い手には色がある。はたして、あなたはどの作家の色に近いか。誰もが無縁でない「お金」について、年末年始に本書を読んで考えるのも一興だ。
※週刊東洋経済 2019年12月28日号