ここ最近の10年間で新聞の部数は約1000万部減り、売上は5645億円減少したという。これは新聞社一社が、まるまるなくなるほどのスケール感を持つ数字だ。
これほどまでに、急速に市場がシュリンクすることのインパクトは大きい。多くの場合、このようなケースにおいていは、古参同士が潰しあいをしながら新規参入組も迎え撃つという挟み撃ちの状況が強いられるのだ。プレーヤー全員が総負けするかもしれないという状況のなかで、それぞれの企業に勤める中の人にとっても、想像を絶するようなこともあっただろう。
本書はこの四半世紀くらいの間、ネットの力によってどのようにメディアが変貌を遂げたのかという歴史を綴ったものである。なかでも中心的に描かれているのが、読売、日経、Yahoo!の三社。これらの企業で繰り広げられる綱引きは、まさにジャーナリズムの異種格闘技だ。
むろん背景には、WEB化に伴うメディア構造の変化がある。しかし、変化の鍵を握るキープレイヤーとして、花形と言われる記者職や編集職ではなく、販売や流通といったバックヤード機能に着目したことが、本書のユニークな点と言えるだろう。ジャーナリズムの変貌を本当の意味で知るためには、言論だけを見ていてはダメなのだ。
本書の物語もまた、販売の現場から幕を開ける。新聞には販売店というシステムがあり、ここが情報をユーザーに届け、料金を回収するといった流通機能の役割を果たす。ある販売店の経営者は小学校の副校長から、新聞を取っている家庭が少なくなっており、切り抜きを使った授業すらできなくなっているというショッキングな事実を聞かされる。それは、iPhoneが日本で発売された2008年の出来事であった。
新聞社同士の顧客の奪い合いも、ネットにニュースを配信することの功罪も、電子版開設のひずみも、いつだって初動は販売の現場から起きる。かつて新聞社は、流通機能を自社の支配下に置くことで安定的な構造を作り上げてきた。しかしWEBプラットフォームという存在が、ジャーナリズムの足元を大きく揺さぶる。
その代表格が、ヤフーニュースという存在であった。そして全国紙の中で一番早くYahoo!にニュース提供を始めたのが、販売の地位が段違いに高いとされる読売新聞であったことは運命の悪戯だったのだろうか。
かつてスチュアート・ブランドが「Information wants to be free」が言った通り、読売新聞のヤフーニュース配信によって、ユーザーはニュース記事をただで読むことにどんどん慣れていった。その先で起こったのが、今や判例の代表的な事例ともいわれる、ライントピックス訴訟である。
これはヤフーに配信している記事の見出しをライントピックスが借用してヤフーに飛ばすことを、配信元の読売新聞が問題視しておこった裁判である。読売、ヤフーそしてライントピックス側の弁護士が、法廷で見出しの著作権をめぐって競り合った。
それにしても、こんなに企業の法務セクションが全面に出てくるノンフィクションも珍しいだろう。今や読売新聞の社長に君臨する山口 寿一も、その一人だ。ニュースのタダ乗りが争点となったライントピックス訴訟を皮切りに、部次長時代に始めたプロ野球関連の暴力団排除、日経・朝日と共同戦線を張った「あらたにす」の開設から、プロ野球を揺るがせた「清武の乱」の制圧まで。
前例無き事象に足を踏み入れ、それが企業の命運を左右するようなことにつながりうるという直感が誰しもに働いたからこそ、法廷において様々な思惑が交錯したのである。これはプラットフォームという一見無機質なものが、たとえWEB企業であったとしても、結局のところは人によって形作られているということの証左と言えるだろう。
一方で、歴史とは繰り返されるものである。WEBの雄たるヤフーにもスマホ革命という時代の潮目が訪れる。結局、このスマホ戦争を制するため、アプリのダウンロード戦争に心血を注いでいくも、そうしたありかた自体がこれまでヤフーが築いてきたプラットフォーマーの地位を、アップルに奪われていくことを意味していた。
そしてヤフーニュース自体をプラットフォーム化することを目論んだ一人のヤフー社員は、想像もつかないような状況に陥り、新たなプラットフォームの構築を目指して、ヤフーから抜け出していく。はたして彼の運命やいかに?
組織という大きな枠組みで見れば、勝負の分かれ目がどこにあったのかは歴史が明確に教えてくれる。しかし組織に属する個人にとってはどうだろうか? 成果に直結しているのかどうかも分からない不毛な努力、何が原因でそうなったのか分からない理不尽な人事、そういった組織の中で悶々としながらも奮闘していく人に向ける著者のまなざしは、どこまでも優しい。
市場そのものが拡大している中に身を置けば、そのような苦境を避けることはできたのかもしれない。しかし皆が皆そのような合理的な判断を下せるわけでもない。その非合理性の中にこそ、ドラマは生まれるのだ。
いつだってメディアの変化は足元からやってくる。それを著者は自身の足を使って描き出した。ビジネス書としての確かさ、そしてノンフィクションとしての読み応え、双方を併せ持つ一冊と言えるだろう。