本書はHONZでも複数の記事があがっている人気の本だ(※)。それでも私が「追いレビュー」をすることにしたのは、それだけ強く心を揺さぶられたからだ。英国での著者親子の日常に触れ、熱い思いが体中の毛穴から噴き出しつづけた。めくるめく読書体験だった。
※HONZ『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』記事一覧
・首藤淳哉のレビュー
・東えりかの著者インタビュー
・古幡瑞穂の「併せて読まれたこの一冊」
本書はまず、中学校を選ぶ場面から始まる。英国では、公立でも小中学校を選べるそうだ。著者の息子さん(以下、「ぼく」)は、エリート中学校に進めるにもかかわらず、荒れた「元底辺中学校」に通う選択をする。この時点で、早くも私はワクワクした。
私にも、同じような経験がある。上位校への進学を先生に薦められたのにもかかわらず、一つ下の高校を選んだことがあったのだ。悩んだ挙句、最終的には学校を見学した時の直感に従った。その時のことが、フラッシュバックしたのである。
私の場合、見学した際の上位校は、均質的で校庭も狭くて暗い印象だった。一方の下位校は、広い河川敷で野球をやっていた。半ツッパリもいたし、女子生徒も多かった!下位校に決めた後、「上位校を選ぶべし」という大人たちの圧力を乗り越える策を私は練らなければならなかった。
言葉の意味はよくわからなかったが、結局、「鶏口牛後」の例えを出して説得した。その時「自分の人生だから、好きなようにしたらよか」と母が背中を押してくれた。予めそれがわかっていたからこそ、私は自分の直感に従うことができたのかもしれない。
「♪ウチに帰れば、母ちゃんいるから安心さ!」
安全基地(セキュアベース)という言葉が、本書の中でも登場する。外界から帰ることができる安定した心の基地。「ぼく」が元底辺中学校を選べたのは母である著者のおかげだと感じたとき、上の言葉がラップ調で私の頭に浮かんだのだ。でも同時に・・・
「♪ダンプ乗りの父ちゃんも、いい味だしてるぜ!」
まっすぐな父ちゃんの愛も、「ぼく」はしっかり受け取っている。本当に良い所で父ちゃんが顔を出してくる。そこもまたサイコーな本なのだ。今こうしている間も、遠く離れた英国にこの家族がいると思うだけで、何だか私は、心強い気持ちになれる。
また、上のフレーズが頭に浮かんだのには、もう一つワケがある。本書で「ぼく」の同級生・ジェイソンがラップを披露したシーンが強烈だったのだ。目を疑うほど過激な、自作の歌詞なのである。日本の中学校では考えられない!その一節を紹介する。
姉ちゃん、新しい男を連れてきて
母ちゃん、七面鳥が小さすぎるって
婆ちゃん、あたしゃ歯がないから食べれないって
父ちゃん、ついに死んだんじゃねえかって
団地の下まで見に行ったら
犬糞を枕代わりにラリって寝てた ~本書「バッドでラップなクリスマス」より
最終的に「来年は違う。別の年になる。万国の万引たちよ、団結せよ!」と歌い上げる。伝説のバンド、ザ・スミスの曲のタイトルからの引用だ。この歌を聴いた教員たちは、誇らしげに拍手をしていたという。まったく、この「元底辺中学校」の寛容さときたら!
私が選んだ高校の多様性など「屁(へ)」みたいなものだ。著者は、この迷いのない教員たちの拍手こそ「底辺」から抜け出した原動力になったのではないか、と分析している。実に鋭い指摘だと私は思った。
最近、Volatility、Uncertainty 、Complexity、Ambiguityの頭文字をとった「VUCA(ブーカ)の時代」という言葉をよく耳にする。複雑で不確実な時代。その色は、どんどん濃くなってゆくに違いない。子供たちは、将来、その現実に直面することになる。
VUCAの時代には、問いの前提は変わり続け、答えは一面の解でしかなくなってしまう。必要なのは、自らの正義を主張することよりもむしろ、他人の主張を受け入れること(本書でいうと「他人の靴をはくこと」)になるのではないだろうか。
「ぼく」が通っている元底辺中学校には、人種や国籍、富める者や貧しい者・・・多様な生徒が通っている。そして日々、問題を抱えた転校生がやってくる・・・。誤解や諍い、その後に生まれる強い絆。そこで繰り広げられるのは、まさに世界の縮図のような日常なのだ。
母である著者と「ぼく」は、その日常のなかで様々な出来事にぶち当たる。そこにあるのは「答え」ではなく「意味」だ。そして、それを見つけるのは著者よりもむしろ「ぼく」であることのほうが多い。そんな「ぼく」の姿は、なんとも頼もしい。
でももしかしたら、安全基地さえあれば、子どもなんて存外そんなものなのかもしれない。転校を繰り返していた私も、親の心配をよそに、新しい友達を次々に家に連れてきていた。父も母も、私に頼もしさを感じていたのだろうか。あぁ、こそばゆい。本書の次の言葉が心に刺さった。
さんざん手垢のついた言葉かもしれないが、未来は彼らの手の中にある。世の中が退行しているとか、世界はひどい方向にむかっているとか言うのは、たぶん彼らを見くびりすぎている。 ~本書「未来は君らの手の中」より
安全基地を提供する親と、自ら「意味」を見つけていく「ぼく」という関係性。兎にも角にも私には、全編を通じたこのやりとりが心地よかった。私たち親子の間にも、この阿吽の呼吸が生まれれば良いのにナ、と思った。
おっと!一息でこんなにも書いてしまった。今回のレビューは珍しく細部(中学校の選択)から書き出したのだが、それがラップのエピソードにつながり、筆が止まらなかった。普段は、最初の段階で本の概要を説明するのだが、最後にまとめる形になってしまった。
本書は、「ぼく」が「元底辺中学校」を選んでから1年半の出来事を、母である著者が飾らない言葉で率直にまとめた本である。だがそれは、事実の列挙に終わらず、読者への問いかけが胸に迫ってくる。ノンフィクション作家としての著者の手腕が凄まじい!
読まないのは、もったいない本だ。中学校対抗水泳大会、バンド仲間とのトラブル、性教育の授業で習ったこと、日本語を話せない「ぼく」が日本で体験したこと・・・興味深いエピソードがまだまだ本書にはたくさんある。その紹介を始めたら、どれだけでも書けてしまうだろう。
もともと私は、自分や家族の「日常と地続きの読書」を楽しむタイプだ。子育て中の私のツボにはまったとも言えるが、緊縮財政やブレグジットで揺れる英国の庶民生活など、教育以外にも読むべき点はいくつもある。いやはや、ブレイディみかこに脱帽である。