どんな重大事件でも時を経ると忘れられ、他人(ひと)の記憶は薄れていく。しかし事件の当事者は違う。何年経とうが胸の中に残る。ましてや、正気では受け止めきれないほどの凶悪事件の被害者ならばなおさらだ。
2004年6月、長崎県佐世保市の小学校で6年生の女子児童が同級生の女児にカッターナイフで喉を切られ死亡する事件が発生した。学校内で起こった前代未聞の事件に報道は過熱した。
だがその熱もやがて醒め、似たような子供同士の殺人事件などが起こると、過去の例として取り上げられるくらいになっていく。
10年後、新聞記者である被害女児の父親の部下が、事件関係者を丹念に取材して『謝るなら、いつでもおいで』(集英社)を上梓した。私はこの本で、被害者に二人の兄がいたことを知る。ただその本で注目されたのは女児と年の近い次男のこと。長男についてはほとんどわからなかった。
本書では、同じ著者があらためてこの家族について、二人の兄が交互に語る形で綴っていく。タイトルの「僕」は長男で「ボク」は次男。彼らは事件前、事件後、どうしたか。そして現在はどうしているのか。
二人は6歳違いで、末っ子の妹は次男の3歳年下だ。活発な長男から見れば妹は可愛いけれど、子供の頃は年の離れた弟妹を気にするより、友だちと遊ぶことに夢中だった。
おとなしい次男は年の近い妹と一卵性双生児のように過ごした。妹は何でもこの兄に相談した。そのことが後に彼を苦しめる。
よその家族と少し違ったのは、母親が早くに亡くなったこと。乳がんの闘病は6年にも及び、多忙な新聞記者で家に帰れない父親の代わりに長男は母の話し相手になった。
母の死後、家族から逃れたいと長男は大学進学を理由に家を出る。事件の後、この「逃げた」ことが妹の死の原因ではないかと悩む。
二人とも事件のことは心の奥底にしまい込む。生活は荒れ、不登校になり、精神を病む。周囲とも壁を作り、父親やお互いを頼ることもない。そうして年月は過ぎて行った。
緊迫した心情に触れ、何度も本を閉じて深呼吸をしなければならなかった。被害者の家族とはこんなにも苦しいものなのか。
だが終盤、二人に救いが訪れる。苦しめるのも人なら手を差し伸べるのも人なのだ。受け止めきれない悲惨な現実に見舞われた若者の、心のケアについて考えさせられる、貴重な記録である。(週刊新潮7・11号より転載)
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昨年、新潮文庫に入った。ネットにおける子供たちの関係性はさらに複雑になっているだろう。少年犯罪にあった被害者家族の悲劇も知ってほしい。