物語とは、いったいどれほどの力を持っているのか? ギルガメッシュ叙事詩や『イリアス』のように、時に偉大な物語は人々の文化の「基盤」となって、行動や思考に大きな影響を与えることがある。
基盤テキストとはなにか
本書では、そのような世界に対して強い影響力を持つ物語のことを「基盤テキスト」と呼称している。その格好の一例は聖書だ。たとえば、アポロ計画二度目の有人宇宙飛行ミッションにあたるアポロ8号が、月の周回軌道を回っている時に、聖書の『初めに、神は天地を創造された』から始まる10節を、何十億もの地球の人々へ向けたメッセージとして読み上げた。
しかし、アポロ八号が教えてくれた最も大事なことは、聖書などの基盤テキスト(foundational text)がいかに強い影響力をもつかということである。基盤テキストとは、時間の経過とともに影響力や重要性を増し、やがて文化全体のソースコードとなり、人にその人自身の出自を教え、いかに人生を生きるべきかを知らしめるテキストである。基盤テキストはしばしば祭司が管理し、それを帝国や国家の中心に祀っていた。王がこうしたテキストを広めたのは、物語によって征服を正当化して文化内の団結をもたらすことができるという事実に気づいていたからだ。
基盤テキストの影響力は大きいから、当然それを嫌う勢力もいる。実際、宇宙で聖書を読み上げた宇宙飛行士、NASAに対して、無神論者のマダリン・マレイ・オヘアは宇宙飛行活動と関連する場所で聖書を読むことを禁じてほしいと裁判所に申し立てた。また、決して一つの基盤テキストが世界で支配的になるわけでもなく、地域ごとに基盤テキストは異なっており、時にどちらが支配的な基盤テキストであるかを競って争いが起こることもある。
たとえば、アポロ計画は冷戦下の戦いの一環であったが、これは同時に基盤テキスト同士の戦いでもあったという。アメリカ側の基盤テキストのひとつが聖書だったとして、ソ連の基盤テキストは? といえば、『共産党宣言』こそがそれである。
ソ連を支える基盤は、聖書よりもはるかに新しいテキストに記された思想だった。そのテキストとは、マルクスとエンゲルスの著した『共産党宣言』である。レーニン、毛沢東、ホーチ・ミン、カストロらに愛読されたこの本は、書かれてから一二〇年しか経っていなかったが、聖書のように古くからある基盤テキストと競いあおうとしていた。
この証拠のひとつとして、ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンが地球に戻った時に言ったとされる「よく探したが、神はいなかった」が『共産党宣言』の思想からヒントを得ていたんだと語っている。本件がどの程度そう(基盤テキスト同士の争いとして)捉えられるかは微妙な気もするが、とにかくこの世界に大きな影響力を与える「基盤テキスト」という考え方それ自体がまず非常におもしろい! 本書ではこのあと、世界に散らばる基盤テキストたちを、その内容と、それがどのような時代背景のもと綴られていったのかと共に紹介していくことになる。
もう少し具体的な内容について
取り上げられている基盤テキストはたとえば、紀元前のホメロスによる『イリアス』や『オデュッセイア』。『ギルガメッシュ叙事詩』に聖書、ブッダ、孔子、ソクラテス、『源氏物語』に『千夜一夜物語』、マヤ文化と密接に関連した神話『ポポル・ヴフ』、ドン・キホーテに西アフリカの『スンジャタ叙事詩』、ハリーポッターまであり、それが当時の世界、文化にどのような影響を与えていたのか──という歴史的な観点から語られていくのがおもしろいのだ。
たとえばマケドニアのアレクサンドロスは古代ギリシャの都市国家を統一し、ギリシャからエジプトまでの王国を征服し、と伝説になるほど世界を征服しながら駆け回った大人物だが、彼はその遠征時には『イリアス』を持ち歩き、枕の下に入れていたという。その理由は単純で、『イリアス』は当時すでに古代ギリシャ人にとっての基盤テキストになっており、アレクサンドロスにとっての聖典といっていいほどの位置を占めていたからだ。『アレクサンドロスはアリストテレスの教えを受けて、ホメロスの『イリアス』をギリシャ文化の最も重要な物語であるだけでなく、彼の目指す理想、アジアへの進出を支える動機でもあると考えるようになった。』
彼の場合はただそのテキストを読んで酔いしれるだけではなく、書かれている内容を自ら再現できるだけの能力と熱量のある驚異的な読者であった。『読者であるアレクサンドロスは物語の中に身を置き、ホメロスの描いたアキレウスの視点から自分の人生と歩んできた道のりを展望した。』というように、ことあるごとに『イリアス』にかかれている内容を自身で再現しようとしており、実際、アレクサンドロスはアジアに達して真っ先に、『イリアス』の中でギリシャ軍の船が上陸した時に先頭をきって飛び降りたプロテシラオスの墓を詣でるなど、聖地巡礼のような行為にたびたび及んでいたりもする。
また、当時『イリアス』はあらゆる人が読み書きを学ぶ際に使うテキストであり、ギリシャ語とその文字を広める主な媒体であった──といった感じで、各地の、各文化の「基盤テキスト」の影響力の解説が行われていくのである。『イリアス』以外は個人的に、自分がまるで読んだこともない文化の神話の話(マヤ文化の『ポポル・ヴフ』や西アフリカの神話ともいえる『スンジャタ叙事詩』など)がおもしろかった他、外の目線から、しかも基盤テキストという観点から見た『源氏物語』の読み解きなども素晴らしいと感じる。
おわりに
本書は成毛眞もFacebookで『ファイナンシャル・タイムズがハラリを引き合いにだしてレビューしている理由がよく分かる。『サピエンス全史』を読んで、次を求めている人におすすめの一冊。』と太鼓判を押して紹介していたが、フィクションが持つ影響力という観点において、確かに連続性のある内容なので、自分も重ねてオススメしておきたい。無論、小難しいことをまったく考えなくとも、著者が自身が旅をしたり、人に話を聞きに行ったりしたエッセイ的なエピソードを取り混ぜつつ古今東西いろんな神話の話を解説しているだけで、読み物としておもしろいので、気楽に手を出してもらいたい(気楽に読むにはちと高いけど……)