数学に関する本を読んで感動したのは初めてかも知れない。以前、NHKスペシャルで、ロシアの天才数学者グリゴリ・ペレリマンが数学の超難問「ポアンカレ予想」を証明した過程を追ったドキュメンタリー番組『100年の難問はなぜ解けたのか ~天才数学者失踪の謎~』を見て、数学の世界のすさまじさに感心したものだが、それをはるかに上回る衝撃である。
2012年8月30日、京都大学数理解析研究所の望月新一教授が、ホームページ上に公開した500頁超に及ぶ4つの論文で、後に「未来から来た論文」と呼ばれることになる全く新しい理論である「宇宙際タイヒミュラー(Inter-Universal Teichmüller Theory)理論」を打ち出し、数学にとって極めて重要な「ABC予想」を解決したと主張して、数学界に激震が走った。
「ABC予想」は、a+b=cを満たす互いに素な自然数の組に関する予想で、「フェルマーの最終定理」(3以上の自然数nについて、Xのn乗+Yのn乗=Zのn乗となる自然数の組は存在しないとする定理)や「ポアンカレ予想」(宇宙の形状解明につながる位相幾何学の予想)に続く数学の超難問であり、これひとつだけで整数論における多くの未解決問題を一度に解決してしまうほどの影響力があると言われている。
数学の天才はしばしば映画の題材にもなっていて、例えば、『ビューティフル・マインド』のジョン・ナッシュ(ゲーム理論でノーベル経済学賞を受賞)や、『イミテーション・ゲーム』のアラン・チューリング(第二次世界大戦中のチューリングマシンの生みの親)などが取り上げられているが、本書の主人公である望月教授は、彼ら以上に本当はフィクションなのではないかと思わせるほどユニークで突き抜けている。
評者自身が数学の素人なので断言はできないが、望月教授はこれまで歴史上に登場した数々の天才たちをはるかに凌駕している。数学の世界は一部の天才たちだけの世界だと言われており、上記のNHK番組でも、ペレリマンが精神的に追い詰められて失踪し、結局、数学のノーベル賞と呼ばれるフィールズ賞の授賞式に現れなかったというエピソードが紹介されているが、望月教授にとっては、フィールズ賞さえも最初から関心のらち外だったようだ。
ただ、そもそも「宇宙際タイヒミュラー理論」というものが何なのかを理解できる数学者が世界に10人くらいしかおらず、査読がなかなか進まない関係で、正否の判定には今後数年はかかるだろうと言われている。
「ABC予想」証明の報に最初は興奮していた数学者たちも、この理論があまりにも難解であり、その後しばらくはあきらめムードが漂っていたようなのだが、両者の溝を急速に埋めたのが、望月教授の盟友で本書の著者でもある東京工業大学の加藤文元教授である。京都大学で望月教授の壁打ちの「壁」を長年務めた加藤教授が、この理論について詳しく解説したYouTube動画が公開されていて、こちらも大いに参考になる。
「宇宙際タイヒミュラー理論」については、当然、評者に説明できるようなレベルのものではないのだが、非常に簡潔に言うと、「足し算と掛け算を分離する」ということらしい。もう少し長く説明すると、自然数の足し算と掛け算からなる「環」と呼ばれる複雑な構造をした数学的対象に対して、その「二つの自由度=次元」を引き離して解体し、解体する前の足し算と掛け算の複雑な絡まり合い方の主立った性質を直感的に捉えやすくなるように組み立て直す数学的装置のようなものだそうだ。
これだけではやはり何のことか分からないと思うので、足し算と掛け算の関係性について少しだけ説明すると、「1を次々に足していく」ことでできる1、2、3・・・という「足し算的な」自然数の捉え方だけでは、自然数の「掛け算的側面」がゴッソリ抜け落ちてしまっているため、例えば、素数というものの性質を把握したり、素数が現れるパターンを記述したりすることはできないらしい。
素数については、それが約数や倍数という概念を用いて定義されることからも分かるように、すぐれて掛け算的な概念であるために、素数がどのようなタイミングで現れるのかといった問題は、足し算と掛け算の強い結びつきを一回断ち切って、その上で今ある数学の世界と再接続しなければ解決できないというのだ。
このように説明しても、結局は何のことだか分からないかも知れないが、人類がこれまで構築してきた当たり前の数学の世界というものを一度、「脱構築」する必要があるということらしく、数学も突き詰めていくと哲学的な世界に足を踏み入れることになるようだ。
元々、望月教授は「ABC予想」を証明するために「宇宙際タイヒミュラー理論」を打ち出したのではなく、「ABC予想」の証明という中間目標はあったにせよ、この理論から「ABC予想」が証明されるというのはいわば副産物に過ぎないらしい。
それほどこの「宇宙際タイヒミュラー理論」は、これまでの数学界の常識を根底から覆す大理論であり、数学の専門家に限らず、知的好奇心の強い人に是非お勧めしたい。恐らく、後半の理論的な説明の部分はまるで分からないだろうが、前半の「宇宙際タイヒミュラー理論」ができあがっていくエピソード部分だけでも、十分に楽しめると思う。
また、望月教授のブログもかなり面白いので、こちらも是非読んでみることをお勧めしたい。その昔、ビットコインの提唱者サトシ・ナカモトの正体は実は望月教授ではないかと言われたこともあったが、これは本人がブログの中で、もうこれ以上いい加減なこと言うのやめて欲しいと、明確に否定している。
望月教授の理論への理解がなかなか広がらない理由のひとつに、難解であること以外に、本人があまり海外で講演をしたがらないということがあるようだ。望月教授は5歳でアメリカに移住し、名門フィリップスエクセターを経て、16歳でプリンストン大学へ進学し、19歳で学士課程を卒業し、23歳で博士課程を修了するなど、殆どの教育をアメリカで受けていて英語はネイティブであるにも関わらず、日本人が英語でプレゼンテーションすることで受けるであろう誤解を嫌がり、海外からのスピーカーとしての招聘をほとんど断っているそうだ。
そこには、人間や社会に対する望月教授の独特な哲学が垣間見える。同じく5歳でイギリスに移住したノーベル文学賞受賞者のカズオ・イシグロが、イギリス英語の世界にこだわるのに対して、ブログの中ではっきりと「かなり根源的な人間性の違いを感じます」と書いており、日本人のグローバル化のあり方について考える上でも非常に興味深く読ませてもらった。