読者を選ぶ本だろう。タイトルからは内容を想像できず、目次を眺めたら困惑してしまうはずだ。第1章「どすこい貧乏、どすこいセックス─女力士はエイリアン」から始まり、この調子で第12章「ババア一擲─なにがわたしをこうさせたか」まで続く。あえて書評らしく紹介すれば、「アナキズム(無政府主義)を専門とする著者が現代の課題を先人の生き様と結びつけ、型にはまらない文体でその解決の処方箋を綴った1冊」となろうか。
取り扱う話題は安倍政権、奨学金、共謀罪、都政、天皇制からキムチ、即身仏まで。通底しているのは、何にも支配されないと隷属を拒否する著者の意志である。
権力は人間を縛るが、本当に必要なのか。歴史を振り返れば、革命時など支配権力がない状態でも、人々は生きてきたではないか。「アァ、アアッッ」とか「ハ、ハヒャア」「クソくらえ」といった擬音語や叫びにあふれた文体で、青臭く聞こえかねない主張をこれでもかと畳みかける。
「権力」「支配」というと遠くの話に聞こえるかもしれないが、現代人にとっては隣り合わせの問題だ。
例えば多くの会社員は「出世」という価値観を所与として受け止め、そこには序列が自然発生している。結果として、会社の中には支配・被支配の構図が生まれている。会社に属さなくても、「カネ」により取引先などへの隷属状態にある人は少なくないはずだ。
こうした関係は現代の日本が生産性を突き詰めた結果であるという。その歪みは社会のあらゆるところに散見される。障害者や同性愛者に「使えないやつ」との烙印を押す人が少なからず存在することがその一例だろう。2016年に神奈川県の知的障害者福祉施設で起きた入所者殺傷事件は、生産性に過剰に毒された弱者が弱者を取り締まる構図であったと著者は指摘する。多くの人は無意識にこの構図に取り込まれ、自発的に隷属してしまっている。
問題はいかにして、この状態から抜け出すかだ。著者は、役に立つか立たないかで考えないことが重要だと訴える。
興味深い事例として「女相撲」を取り上げている。女相撲は明治時代に興行として始まり、人気を博した。風紀を乱すという理由で度々、官憲の取り締まりにあったが、大衆に支えられ、1950年代まで続いた。女は家に入って、子供を産むのが当たり前とされた時代に、裸に近い格好で相撲をとる。国が女性の身体に求めた行為とかけ離れた行為は、当局には理解不能で、許されるものではなかったのだ。
現代では女相撲を女性の自立の第一歩と位置づける向きもある。しかし彼女たちは、おそらくそのようなことは意識していなかった。やりたいからやっていただけなのだ。
著者が専門とする戦前のアナキスト、大杉栄は「生の拡充」を唱えた。自分の頭で考え、前提と信じられているものを捨ててしまう。根拠がないこともやりたければやる。まともな大人にならなくてはいけないなどと考えない。そのことで人生が広がり、生の躍動を感じる。
人生100年時代の今、旧態依然とした発想での「逃げ切り」は難しい。令和時代を生きるビジネスパーソンにとっても、アナキズムが少しは必要なのかもしれない。
※週刊東洋経済 2019年5月25日号より転載