平成が終わった。元号なんて日本でしか通用しない、世界は西暦だ、などと言われてしまえばその通りなのだが、大学入学で上京したのが平成元年だったこともあって、個人的にはやはり平成の終焉は感慨深いものがある。
平成とはどういう時代だったのだろうか。
平成元年、1989年12月29日に日経平均は史上最高値の3万8915円87銭をつけた。ところが翌年1月から株価の下落が始まり、夏には都心の地価も下がり始めた。1991年(平成3年)2月に景気が後退局面に入ると、あとは坂道を転げ落ちるように日本経済は転落して行った。その後に長すぎる停滞が待っていたのはご存知の通りだ。
平成とはバブルのてっぺんから始まり、奈落へ転げ落ちて負った複雑骨折の大怪我が癒えることのないまま、そのほとんどを寝たきりで過ごしていたような時代だった。平成が終わり、令和が始まった瞬間の空騒ぎを見ていると、停滞をなんとかしてリセットしたいという人々の切実な思いを感じてしまう。
だが、本当に平成は終わったのだろうか。
本書を読み終えたいま、そんな疑問が頭から離れない。
本書は「トッカイ(特別回収部)」と呼ばれた人々の戦いの記録である。
「住専」という言葉を覚えているだろうか。トッカイは、経営破綻した住宅金融専門会社(住専)や銀行から選ばれ、バブル崩壊で焦げ付いた100億円以上の大口の債務者からの回収を担当した人々だ。しかもただの債務者ではない。「悪質かつ反社会的」という但し書きがつく。要するに借りた金を平気で踏み倒そうとするような面々の資産隠しを暴き、取り立てるのが彼らの仕事なのだ。
若い人には信じてもらえないかもしれないが、平成になったばかりの頃は、金融機関が潰れるなんて誰も思ってもいなかった。それがバブル崩壊で一気に現実のものとなった。大小あわせ180もの金融機関が次々に破綻、その中心にあったのが住専だった。住専はもともと個人向けの住宅ローンを取り扱うために大蔵省が主導して銀行や証券会社などに設立させた会社である。ところが企業が資金を市場から直接調達する直接金融にシフトし、金融自由化も進んだことで、貸し先のなくなった銀行が住宅ローン市場に参入してきた。利用者は住専から金利の安い銀行へと乗り換える。すると新たな融資先を求めざるをえなくなった住専は、好況だった不動産業界に活路を見出そうとした。
不動産業界を舞台に住専も銀行も競うようにカネを貸した。一介の料亭の女将に1兆円を超える融資を注ぎ込んだり、リゾート業者に銀行が経営破綻のきっかけとなるほどの巨額の融資を行ったり、狂気の沙汰としか思えないような乱脈融資が行われた。「バブルは貸す競争やぞ。それをわしらは借りて大きくなってるだけなんや」という本書の登場人物のセリフは、その開き直りは別にしても正鵠を射ている。
政府は住専の焦げ付き債権を処理するために、6,850億円もの公的資金を投入することを決めた。住専とは何の関係もない国民の税金が初めて使われるとあって、大蔵省や住専各社は猛烈な批判を浴びた。その逆風の凄まじさは、社員の家族が身の危険をおぼえるほどだったという。
世間の怒りを鎮めるには、悪質な借り手や住専経営者らを逮捕し、貸し付けた金を回収しなければならない。国は住専7社を倒産、消滅させた後、住専処理機構という新組織をつくり、そこに不良債権を集約させた。機構はその後、株式会社住宅金融債権管理機構として発足するのだが、ここに送り込まれたのが倒産した住専の社員たちだった。要するに自分で貸した金を自分で取立てろということだ。著者はこれを将棋の駒使いになぞらえる。破綻した会社から奪った駒(社員)を悪質業社に向けて打ち込むからだ。
新組織のトップは中坊公平。正義派弁護士として知られ、住専処理という火中の栗を拾った中坊を世間は「平成の鬼平」ともてはやした。そんなトップの下、運命のいたずらで能力も社風もバラバラな連中が集まった。元住専社員の上に立つ幹部の多くは、住専に出資していた母体銀行からの出向組。片道切符の現場の上に、帰るところのある上司がつくという歪な構図だ。この寄せ集め集団で、悪質な借り手を相手にした戦いにのぞんだ。
著者はハードボイルド・ノンフィクションとでも呼ぶべきジャンルを切り拓いてきたが、本書でもそれぞれの矜持を胸に逆境に立ち向かう人々の姿が描かれており、読む者の胸を熱くする。彼らは所属していた組織でははみ出し者だった人々だ。小利口な連中がさっさと逃げ出した後、不良債権回収の修羅場へと飛び込んで行ったのは、こうした傍流の人々だった。
本書がフォーカスする大口の借り手は、末野謙一と西山正彦だ。
末野は末野興産で大阪の花街を買い占めたのをきっかけに、住専各社からピーク時には1兆円もの融資を受け、「ナニワの借金王」の異名をとった男。
一方の西山は京都の「白足袋族」の懐に深く食い込み、国宝や寺社仏閣の売買などでその名がささやかれた不動産会社社長で、後にトッカイと20年にわたり争うことになる「怪商」である。
トッカイが対峙したのは、こうした一筋縄ではいかない連中だった。
たとえば末野が家宅捜索を受けた時は、末野興産の本社ビルが役に立ったという。実はこのビルは、上層階が違法建築でこっそり建て増しされていた。外からは8階建に見えても、9階に隠し部屋があったのである。登記簿をみて8階までの捜索令状を取って現れた検察は、目指す割引債が隠されていた上の階に上がることができなかったという。
このような回収現場のディテールは本書の読みどころのひとつだ。
暴力団が占拠するマンションを強制執行したときのこと。準備に10ヶ月もかけて突入したにもかかわらず猛烈な抵抗にあった。この時、住管機構の社員らが機転を利かせ、近くの神社に走り神主を連れてきた。神主が神棚に向かって二礼二拍手一礼し祝詞をあげはじめると、組長らは一斉に頭を垂れ、神棚の移転にこぎつけた。以来、組事務所の執行をする時は、神主を伴うことがしきたりとなったという。
「怪商」との攻防も読ませる。タックス・ヘイブンやプライベート・バンクを駆使した手口で尻尾をつかませない西山を、トッカイは「法の核兵器」と呼ばれるある手法を用いて追い詰めるのだが、このくだりは圧巻だ。ここまでやらないとカネは取り戻せないのかとため息が出る(詳しくはぜひ本書を読んでほしい)。
令和になったからといって新しい時代の展望が開けるわけではない。なぜならいまも不良債権の回収は終わっていないからだ。債権の消滅時効は10年だが、機構は50を超える悪質債務者に対し時効停止の訴訟を起こしているという。
トッカイは勝ったのか、それとも負けたのか……。ある登場人物はそう自問する。国民のために辛い回収業務のぞんだにもかかわらず、取り戻せた債権はごく一部に過ぎず、かつて追及した悪徳業者はふたたび稼ぎ始めているからだ。
本書の読後感は、ウイスキーのように苦い。
だが人生の苦さを知る人には、胸に響くものがあるだろう。