笑う埴輪の兵士。
相撲をとる蛙とウサギ。
シャボン玉を吹く金魚。
本書に登場する作品は、とにかく可愛く、とにかくユルい。
アートの文脈をひもとくと、西洋では19世紀半ばのルネサンス以降、より実物に肉薄するリアリズムの追求が芸術の目標だった。ミケランジェロの彫刻は肉体をリアルに再現し、遠近法をふまえた絵画は実際の風景があるかのように見せた。そこからセザンヌやゴーギャンなど印象派の画家達が表れ、リアリズムに取って代わるものとしてモダンアートが生まれるようになる。
つまり欧米主体のアートヒストリーでは、ゆるくてかわいい文化は育たなかったことがわかる。一方、日本の文化はアニメや漫画などのエンタテインメントが豊富で、日本はキャラクター天国とも呼ばれている。
本書は縄文時代の土偶や埴輪など、中でも可愛らしい作品から、仏像や中世絵巻と近代絵画に至るまで、「ゆるカワ」美術作品にフォーカスした一冊だ。紹介される作品解説に触れてみれば、日本美術史は想像以上に可愛い側面があることに驚くだろう。
表紙には虎が鎮座しているが、これが全く怖くない。それどころか人懐っこい印象だ。当時の日本では本物の虎を見られなかった。この虎を描いた絵師の尾形光琳は、リアルな猛獣を描くのを諦め、それよりも大胆かつ繊細なデザイン性に走り、リアリズムから脱却したともいえる。
日本の浮世絵における表現は、人物の顔の輪郭に明確な線が引かれてきた。かつ着衣には陰影のない明瞭な色彩が刷られる。反対に西洋絵画は、輪郭線がない。陰影表現のため色を混ぜる傾向にあるが、絵具を混ぜると彩度が落ちグレイがかってしまう。そのためヨーロッパ絵画は全体的に陰鬱な表現だ。彼等にとって北斎など明るい色彩構成と構図は、当時は衝撃的だっただろう。実際にモネやゴッホも、浮世絵を取り入れた作品を残している。
第5章では、江戸の絵師達(俵屋宗達・尾形光琳・伊藤若冲・円山応挙・中村芳中・歌川国芳)のゆるキャラを紹介している。例えば俵屋宗達《狗子図》は、ワラビが生える中、1匹の子犬だけがぽつんと描かれている。筆は濃淡のグラデーションで柔らかい毛を表し、絵の中の子犬を思わずなでてみたくなる。彼らに共通するのは、リアリズムを追い求めずデザイン的な画面処理を行っている点だ。つまり美術史において十八世紀の日本は、リアリズムの先にさらに進んだ絵画表現を完成させていたのだ。
これら表現には、日本の縄文思想が根底にあるのではないかと著者は説く。日本は大陸から突き出した半島の先に、海峡を隔てた列島である。この海峡が文化の選択を可能にするフィルターの役割だったのではないか。縄文時代は1万年ほど狩猟生活が続いた。そこでつくられた造形物にはイノシシや怪獣などの小像がみられるが、そのかわいさは別格だ。これは列島に住んだ人々による、万物への愛情。もしかすると日本の土壌は、ゆるカワを醸成しやすい環境だったのかもしれない。
西洋絵画では透視図法による遠近表現と光源を想定した陰影法を駆使し、写真に再現するリアリズムの時代があった。そう考えると画家は、リアリズム以外の表現をしなければ生き残れなかったともいえる。そんな中、明治の世が来ると日本の絵師たちはそれまで培ってきた絵画の価値に気付かず、反対に西洋流のリアリズムを学ぶ道を選んでしまった。皮肉なことに、その間20世紀のアートは、日本絵画に学んだ欧米のモダンアートが牽引しはじめたのである。
たしかに現代アートの世界でも、村上隆や奈良美智などのアーティストが活躍している。これは日本の土壌で培った愛でる文化を、一つの武器としているせいかもしれない。そうなると日本のゆるカワ表現は、世界的なトップランナーだったのかと脳裏に浮かぶ。