身近なれど未知なる障害『吃音 伝えられないもどかしさ』
魂の一冊である。『吃音 伝えられないもどかしさ』は、自らも吃音に悩んだ近藤雄生が80人以上の吃音者と対話し、その現実に迫る渾身(こんしん)のノンフィクションだ。
吃音について何も知らなかった。8割は自然に治るとはいえ、幼少期に悩む子どもは約5%にも及ぶ。だから、吃音のある人は約1%、日本だけで約100万人もいる計算になる。
近藤によると、吃音には「曖昧さ」と「他者が介在する障害である」という2つの特徴がある。常に症状が出るとは限らない。原因が精神障害なのか身体障害なのかすら定まっていない。だから、治療法は確立されていないし、治るかどうかもわからない。吃音には、こういった「曖昧さ」がつきまとう。
1人でいる時には問題ないが、他者とのコミュニケーションに影響を与え、時には恐怖すら感じてしまう。「他者が介在する障害」とはこういった意味であり、吃音は100万人の問題にとどまらず、「他の誰ともつながっている問題」でもある。
この2点だけでも、吃音というものが理解しにくく、そして、社会にとっても大きな問題であることがわかる。にもかかわらず、これまであまり広く論じられてこなかった。
障害者枠で雇用されることを選んだエンジニア、吃音の子どもを育てる母親、周囲からの圧力で自死を選ばざるを得なかった新人看護師。読むのもつらい話が多いが、メインは、重度の吃音に悩み、それを克服しようとする髙橋啓太の物語だ。
「どもっていてもいいという現実は、自分の人生の中にはなかった」という、吃音に悩んで言語聴覚士になった羽佐田竜二の指導の下、髙橋は徹底した訓練を受ける。
努力が実り、発話をコントロールできるようになった。しかし、それは吃音が治ったことを意味しない。発話がスムーズになるというのと吃音が治るというのは、まったく違うレベルのことなのだ。やはり難しい。
海外放浪生活中に、これといった理由もなく吃音が治った近藤は「吃音は、自分を長く悩ませてきた一方で、現在の自分自身を形成した重要な要素である」という。
この言葉、重松清の自伝的小説『きよしこ』を読めば、いちだんと深みを増す。主人公の少年きよしが様々なつらい経験を経ながら成長していく。その過程において、吃音がいかに大きな影響を与えていくか。
『どもる体』では、吃音を症状ではなく経験としてとらえ、身体論の立場から論じられていく。ほんの少しだけだけれど、吃音のことがわかったような気がする。
一人でも多くの人が吃音について考えること、そして、100万人だけの問題に押し込めてしまわないことが、きっと何より大事なことなのだ。
(日経ビジネス3月25日号から転載)
重松清の自伝的小説。せつない。
著者の伊藤亜紗は、美学が専門で、東京工業大学リベラルアーツ研究教育院准教授。やはり自らも吃音に悩んだ。