「静かな情熱を湛えている」というとかっこいいけれど、食卓をはさんで目の前にいても「あら、あなたまだそこにいたの」と妻から言われるくらい普段存在感が薄くて、激しい情熱とは無縁の私。そんな私が『情熱でたどるスペイン史』という、ちょっと恥ずかしい表題の書物を公にしてしまったのはなんでかなあ、と思わないでもありませんでした。
しかしその恥ずかしさを打ち消すように文献を読み漁り、必死に考えをまとめてできあがった本書には、やはりこのタイトルこそがふさわしいと、今は思っています。
「情熱のスペイン」という惹句は、たしかに観光案内やテレビの旅行番組ならともかく、中高生を対象にした真面目な書物には不適切だと注意されるかもしれません。そして情熱のほとばしるスペイン人の活動として、フラメンコに闘牛、レアル・マドリードやバルサのサッカーへの熱狂、カルメンやドン・フアンの激しい恋愛、こんなものを取り上げていては、スペインの歴史や社会の基本的な骨組みは捉えられないのではないか、という生真面目なスペイン史研究者の反発も、わからないではありません。
でも、本書はそんな受けねらいのチャラい書物ではないのです。ここでキーワードになっている「情熱」には、じつはとても深い意味があって、スペインの古代から現代までの長い歴史のドラマと密接にからんでいた「全体的な生の流れとの一致の感情としての情熱」を問題にしているからです。
このようにスペインの歴史をひとつの精神的視座から説き起こし解き明かしたスペイン論は、これまで皆無でした。今までは、いささか無味乾燥になりがちな政治史・制度史中心の通史か、「スペイン人とは何か」というような国民性論になるか、どちらかでした。その両者を融合させたところが本書の取り柄だし、独自の特色だと思っています。
本書を読んだスペイン文学をやっている大学の同僚の某先生からは、スペインという国の全体像、その過去から現在までの流れがすっきりとわかりやすくまとめられて、この国の歴史がこんなに見通しよく見える経験ははじめてだ、とお褒めの言葉をいただきました。やはりスペイン史は、情熱でたどって正解だったのです。
スペイン史の展開はやたらに複雑で、すっきり理解するのが難しいです。中世には長らくイスラームとキリスト教勢力が対峙・共存していただけでなく、それぞれがいくつもの国に分裂したり、隣国を吸収合併したと思えばふたたび分裂したり、王位継承の偶然や宮廷内の勢力争いで王朝が頻繁に交替したりしました。
近現代に入っても政治の錯綜はあいかわらずで、身分間・地域間の争いや王党派と共和派の内戦がくり返され、それに外国が介入して戦乱が拡大されたり、頻発するクーデターで政権交代したりと、クラクラめまいがしそうです。
しかしスペイン史を見通しよくするには、複雑な枝葉(=諸事件)を伐採して幹だけにして単純化してしまえばよい、というものではありません。むしろ、それぞれの枝や葉、花や実が、根と幹を介してどんな「養分」を、いかなる形で吸収してきたかを見定めることが必要なのです。そしてその養分のもっとも重要な栄養素が「情熱」です。
じつはスペイン史を対象にした本書の前に、私は、他の主要ヨーロッパ諸国についてもおなじ岩波ジュニア新書でキーワードによる通史を公刊しています。すなわち、劈頭の『パスタでたどるイタリア史』(2011年)においては、イタリア随一の国民食として世界中で愛されているパスタをめぐって、その起源、材料、製法、調理法、食事体系での位置づけ、諸地方・諸身分の貢献、家庭での役割とりわけ母親との関係などに着目しながら、歴史をたどりました。その中核に見出したのは、「パスタ感覚」というイタリア人の身体と精神に染みついた独特な感覚です。
ついで『お菓子でたどるフランス史』(2013年)では、フランスが世界に誇るお菓子(スイーツ)について、古代神話やキリスト教の儀礼との関わりを検討した後、絶対王政期以降には、統治者による政治戦略の主要な駒、貴族やブルジョワたちの社交の道具であるとともに、フランス的エスプリの凝縮された特別に重要な食べ物になったと喝破しました。
ここまでは私の好物から、思い入れタップリに語ってきたのですが、さて、つぎのドイツはどうしようか、ジャガイモやソーセージやビールは嫌いではないけれど、それらに古代から現代までを語らせることはとてもできそうにありませんでした。そこでゲルマン民族をルーツとするドイツ人たちに広く見られる「自然」への実践的にして理念的な交わりに着目して、『森と山と川でたどるドイツ史』(2015年)ができあがりました。
さらにイギリスは、食べ物は端から論外でしたが、幸いこのヨーロッパの島国には、我が国の天皇制に並び称されるほど長期にわたり、広い層の国民に支持されてつづいてきた王制がありました。そしてイギリスの王様たちは、政治にとどまらない、文化的・社会的に重要な役割をずっとはたしてきたことが次第にわかり、調査を重ねて『王様でたどるイギリス史』(2017年)を書き上げました。
各国のとりわけ近現代史の専門家たちにしてみれば、私のヨーロッパ各国史は素人芸で、何か新たな事実を掘り起こしたり、従来の評価を覆したりしたものではない、と批判したくなるかもしれません。
しかし私は、これまでになかった視座から各国の歴史の展開する姿を一貫して見通してみたのであり、これをヨーロッパ主要五カ国すべてについて遂行するのは、〜自画自賛になりますが〜 大変な力業で、誰にでもそう簡単にできることではないと思うのです。ですからできるだけ多くの読者に手にとってほしいですし、5冊まとめて買って損はありません。