本を開いたとき、「ウザすぎる!残業武勇伝」という見出しが目に入った。残業武勇伝とは、「終電まで残業した」「連続で何日も出勤した」などと自慢するアレである。残業に達成感と報酬と成長がついてまわっていた時代の、昔語りである。本書では、冒頭のコラムで当時(昭和)の残業と平成の残業の違いを考察していて、いきなり面白い。
大量生産大量消費の時代には、頑張れば頑張るほど「報酬」はあがった。終身雇用の社内では、ドメスティックな知識や経験の蓄積が「成長」とみなされた。しかし今は、「成長」の定義そのものが変わってきている。変化に対応する力をつけることが「成長」なのだ。そのため驚いたことに、残業はむしろ成長阻害要因になっているという。
このデータからは「残業を捨て街に出たい」という思いが伝わってくる。働き方改革に様々な提言をしているAPU学長・出口治明氏は、良いアイデアは「人、本、旅から生まれる」と語っているそうだ。つまり、余暇を使って外部から学んだものから良い成果が生まれる、というのである。残業武勇伝を語る人々は、この変化に気づいているだろうか。
このように本書は、2万2000人規模の調査による圧倒的なデータから、これまで見えなかった「残業の現実」を浮き彫りしている。その志あふれる仕事には心から敬意と感謝を表したい。平成の不良債権(=長時間労働)の是正に本腰を据えて取り組みたい方には、まさに最良の一冊だ。本書の「はじめに」で著者はこう書いている。
長時間労働の是正という「とてつもない難問」を、「私の残業論」という「個人の経験談」だけで解決しようとする書籍があとを絶ちません。本書を通読すればおわかりいただけると思いますが、長時間労働は構造的に生まれているものであり、こうした付け焼刃的な方法では、決して問題を解決することはできません。これに対して本書は、前述の通り大規模調査に基づいたデータやエビデンスによって構成されています。
そうなのだ。一口に長時間労働の是正といっても「とてつもない難問」なのである。私もそれに取り組む一人として、その複雑さ・困難さに茫然としてしまう。社員一人一人の理解度が違うなか、なぜ今、取り組む必要があるのか共通理解を作ることから始めなければならない。同居する実母を介護している私には、少しは、その意義が理解できる。
人口構造を考えると、従来の「長時間労働が可能な人だけが働ける職場・社会」=「事情を抱えた人を切り捨てる職場」から、「様々な立場の人を働き手として受け入れる社会」に変える必要がある。働き手が不足するからだ。家族の看護に追われて休みがちな同僚に、冷ややかな言葉しかかけられない人は、速やかに職場から退場してもらっていい。
でもこのような意識高い系のアプローチには限界がある。本書が優れているのは、長時間労働がもたらす個人のリスク、企業のリスクを具体的に挙げている点だ。これを読めば、その是正は、社会的な意義や上の指示でやるものではなく、自分のためにやるものであることがわかる。そして、時限消灯など、外科的な施策への「やらされ意識」が吹っ飛ぶ。
本書の序盤では残業の歴史や実態にふれ、中盤で「麻痺」「集中」「感染」「遺伝」「残業代依存」など残業発生の要因を構造的に考察。終盤では上記のように残業抑制施策の負の側面を示し、いま何が必要か、具体的な解決策を提示する。その流れは、立て板に水。読んだら直ぐに、一歩を踏み出したくなる。この本はそんなパワーを持っている。
働き方改革にモヤモヤを抱える人々の胸に希望を灯し、人事担当者には自社の実態にあった新しいアイデアをもたらすだろう。多岐に及ぶ残業発生要因を分析した中盤は、その豊富なデータも含めて、とくに刮目に値する内容である。例えば、職種ごとの残業発生要因を示した次の表をみてほしい。
表の理解のため誤解を恐れずに一言ずつ補足すれば、「麻痺」は残業に幸福を感じる状態、「集中」は一部のできる人への仕事の集中、「感染」は職場内のヨコの伝染、「遺伝」は世代間などのタテの伝染、「残業代依存」は生活費に組み込みである。示唆に富んでいるので、詳しくは本書で確認してほしい。「感染」については、こんな衝撃的なデータもある。
読後、私の本は付箋だらけになった。皆様にご紹介したい箇所ばかりだったからだ。本書と同時並行で、私はこの正月に『キングダム』という漫画を読んだ。秦の始皇帝が中国統一を果たす過程を描いた物語である。そのなかで古い世代の生き残りである廉頗将軍が、若い世代と対峙するシーンが深く印象に残った。
廉頗将軍は説く『自分たちはもはや穢れることのない伝説となったが、それを若い世代が超えるには「中華統一」という新たな伝説が必要だ』と。その場にいる登場人物たちは、驚愕の表情を浮かべる。主人公はハッとして、これまでとは全く違うレイアーにある、そのゴールに向かうようになるのである。目指すのは、従来型の武勇伝ではない。
残業、ひいては働き方、人生。主人公同様、私もこれまでと違う景色を見たいと思った。働き方ならPL脳に変わる「ファイナンス思考」、人生なら損得ではなく「アート」だろうか、なんて考えた。ただ感覚的に働き方改革に抵抗する人にだけはなりたくないと思った。今こそ、変えられるものを見極める賢さと、それを変える勇気が必要なのだ。
一昔前、サラリーマンのバイブルは『徳川家康』だった。これからの時代、私はこの『キングダム』をお薦めしたい。同時にこの『残業学』を併読すれば、さらに良い。なぜならば本書は、従来の「成果」や「成長」「会社」などの定義をアンインストールして、アップデートすることを推奨する本だからだ。本書を読んで、武勇伝の時代を塗り替えたいものである。
※図表提供:光文社