『深淵の色は 佐川幸義伝』ー合気武術の深奥に触れる津本陽の遺作
2018年5月26日、多くの武道小説を書き続けてきた津本陽が急逝した。本書はその遺作となったの、合気の達人「佐川幸義」の評伝である。
異色であると同時に大変な力作であるこの本は、武術の極意を小説で表そうとした小説家が、実際に合気という神技の深奥に触れた感動が正直に語られていく。
津本が、大東流合気武術の祖である武田惣角の弟子であり、天才武術家として名を馳せていた85歳の佐川先生と初めて会ったのは昭和62年のことだ。『鬼の冠 武田惣角伝』(実業之日本社文庫)を書いた津本は、実際の合気とはどのようなものであるか見たいと道場を訪ねた。
その稽古の場で、相手の体を全く掴まず、相手に掴ませたまま身をひねるだけで人を3メートルも5メートルも投げ飛ばす技に仰天する。
門人となった津本は合気の神髄に触れて恐れをなし、伝記を書くこと一度は諦める。だがさらに多くの資料を託され期待を受けながら、佐川先生は95歳で亡くなってしまうのだ。
没後20年経ち、新たに書き上げる決意をしたのは、高弟である木村達雄氏からのある相談であった。筑波大学の数学の名誉教授である木村氏は、最晩年まで佐川先生のもとに通い詰め一番身近にいた。木村氏が見聞きし、体験したことを拠りどころとして本書は綴られていく。
「人間は進化しなければ退化していく。同じところに停まることはない」
死の間際まで鍛錬を続けた佐川先生は木村氏に期待し「ボンクラ」と言いつつ技を伝授した。「合気とは不思議な力でなく理論である」と佐川先生は言う。その理論に魅せられ、多くの学者や識者、一流の武道家が佐川先生の弟子となった。
津本には合気の深淵の色は見えなかったかもしれない。しかし不世出の名人の足跡を残すことはできたのだ。いま、共に泉下の客となった作家と武道家は、武術の極意について談笑しているのではないだろうか。(週刊新潮11月29日より転載 写真は編集部よりお借りしました)
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