海から眺める人類史を一冊にした本で、海好きにはたまらない内容だ。海については、生活・科学・文化・物流・軍事などの様々な視点から数多くの書籍が出版されているが、これまで海の歴史を網羅的かつ包括的にまとめた書物はほとんどなかった。今回その壮大な歴史をまとめあげたのが、知の巨人ジャック・アタリ。壮大な世界観の歴史書を書かせれば彼ほどの適任者はいない。
本書は、130億年前の宇宙と水の誕生という地球科学から始まり、動物や人類の誕生という生物史、ローマ帝国や中国王朝という権力者による海の支配史、蒸気船やコンテナ船という海を舞台にしたビジネスイノベーション、海を中心に広がる環境汚染問題と多岐にわたる題材を取り扱う。それぞれのトピックで一冊の本が仕上がるほどの内容が、一冊に詰まっているのだ。
「人類の将来にとってより重要なのは、宇宙の探査よりも海だ」と著者は強調する。たしかに本書のように海という視点から歴史を振り返ると、人類の未来にとっていかに海が重要なのかということに気づかされる。
自然界において、海は人間が必要とする全ての飲料水、酸素の半分、動物性タンパク質の五分の一を供給している。気候も海に大きく左右され、海がなければ地球の気温は少なくとも35℃は上昇すると言われるほど、かけがえのない存在である。海なしには人類が生きていけないのは瞭然たる事実である。
人類史では、経済・政治・軍事・社会・文化の分野で活躍するのは、いつの時代も海と港を支配する者たちだった。権力にとっては制海権を失うと衰退が常である。それは今でも変わらない事実だ。未来においても、海の恩恵を最大限に受ける勢力が世界をリードすることになるだろう。
制海権を失ったことによって権力を衰退させた例が本書ではいくつも紹介されているが、世界最初の総力戦とも言われるアメリカ南北戦争までもが制海権が勝負のカギだったというのは目から鱗だ。アメリカ南北戦争といえば奴隷制をめぐって南北両軍の大規模な陸軍騎兵隊がぶつかりあったというイメージを持っているが、実は制海権が勝敗を大きく左右していたのだ。
南部が権力を衰退させたのは、後の大統領リンカーン率いる北軍による南軍の水域と領土の海上封鎖作戦が功を奏しはじめてから。リンカーンの海上封鎖により南軍は徐々に必需品が手に入らなくなり、国内はインフレが発生し、多くの銀行が破綻する事態となった。特に、騎兵隊の馬を養うのに必要な塩を入手できなくなってしまい、軍の弱体化を招いてしまった。かの南北戦争の舞台裏は海だったのだ。
ビジネスの面でも海を掌握することの重要性は高い。今日において海は1兆5000億ドルの付加価値を生み出し、5億人の雇用を創出する巨大産業地である。商品・通信・電子データの90%以上は海を経由し運ばれる。また、蒸気機関やコンテナなど我々の暮らしを大きく変えたイノベーションも海から生まれている。
そんな海において新たな分野での覇権掌握が着々と進められている。これまでの歴史は、海上貿易で成功する国家や企業が世界経済にてトップに君臨していた。これからも海上貿易の重要性は変わらないが、データ通信の重要性も増していくと想定されている。ここに目をつけたのが超大国アメリカとアメリカ企業である。アメリカは、海上貿易や港の面で中国を含むアジア諸国に劣りはじめているが、今後、海底ケーブルによるデータ通信の分野で最先端を走ろうとしている。
フェイスブック社、マイクロソフト社、グーグル社といったデジタル企業は大西洋や太平洋に海底ケーブルを通すことを着々と進めている。多くの企業が宇宙に躍起になっているのを横目にしながら、大容量の海底ケーブルを敷設し、したたかにデータ通信の面でインフラを掌握しようとしている。彼らは、人工衛星のデータ通信が全体に占める割合はこうしたケーブルと比較してがごくわずかであることをしかり理解しているのだ。
「海には、富みと未来のすべてが凝縮されている」というくだりから始まる本書は、海が人類には欠かせないあらゆるものを生み出してきたことを伝えたうえで、「未来においても、最強の勢力は海から、そして海の恩恵によって誕生するはずだ」と唱える。そして「国家の将来は、海洋と沿岸部について本格的な戦略を実行できるかにかかっている」と本書を結んでいる。
著者であるジャック・アタリがターゲットとするのはフランスのエリート層だ。日本への示唆も豊富だが、本書の節々にフランスはもっと頑張らないといけないというメッセージが込められており、あたかもジャック・アタリの愛弟子であり、現フランス大統領であるエマニュエル・マクロンに向けられた講義のようだ。フランスではこのように政治家が育てられるのかと羨ましい限りだ。