経済学とは何か?―こんなシンプルな質問にさえ、今の経済学は答えるのが難しい状況にある。かつて、個々の経済主体の行動から経済全体の動きを理解するミクロ経済学と、GDPなどの集計量から経済全体の動きを扱うマクロ経済学の二つが主流だった頃には、「経済現象を対象とし、それを解明する学問」で済んだものが、20世紀半ば以降、従来の主たる研究対象だった市場メカニズムだけでなく、企業のような市場以外の経済制度も分析対象とするようになり、急速に多様化・複雑化していった。そして、過去30年の間に、本書の副題にあるようなゲーム理論や行動経済学や制度論といった新しい手法が次々と生まれてきた。
こうした中で、本書は、経済学とは何かという答えを示す代わりに、現在の経済学の広範で多様な様相を整理することで、そもそもなぜこの問いに対して簡潔に答えるのが難しいのか、経済学はなぜそれほどまでに複雑になったのか、そして経済学はこれからどこに向かうべきなのかを、分かりやすく解説してくれている。
今の経済学のあり方に対する著者の問題意識の背景には、経済学が想定する人間観への根源的な疑問がある。現代の経済学の起点となっている新古典派経済学の前提になっているのは、合理的な選択を行う「ホモ・エコノミクス(homo economicus:経済人)」である。この仮定の下に、合理的な主体同士が自発的に交換を行う「交換の経済学」が、現代の経済学の原型であり、これがアダム・スミス(1723-1790年)が『国富論』で言及した「(神の)見えざる手」を数学的に説明する市場理論に繋がっている。
更に、一部の行動経済学や神経経済学において顕著に見られるように、近年の経済学では、人間の行動を自然科学的に解明する、自然主義的アプローチが取られるようになっている。例えば、著者は歴史学者のユヴァル・ノア・ハラリ(1976年-)を批判的に取り上げ、その著書『ホモ・デウス(Homo Deus)』には、こうした経済学の傾向と通底するものが見られるとしている。
同書の中で、ハラリは、AI(人工知能)やバイオテクノロジーが発達し、データやアルゴリズムの方が自分よりも自分についてよく知っている時代がくれば、近代的ヒューマニズムを前提とした「ホモ・サピエンス(賢いヒト)」の時代は終わり、最終的に人間はデータの束に還元され、不死と神性を目指して「ホモ・デウス(神のヒト)」へと自らをアップグレードするデータ主義の時代へ移行するだろうと予言している。
これに対して著者は、ハラリや行動経済学は人間の本性を単純化し過ぎだとして、「制度をつくるヒト(homo instituens)」という新たな人間観を提示する。つまり、人間は、先人たちが作り上げた制度の中で育ちながら、認知能力を獲得し、新たに制度を作り上げていく。人間は自分たち自身で制度を作ってきて、それが人間のできることを拡張してきたが、それと同時に、人間は制度に拘束されて存在しているという構図である。そして、この制度は、自然界に属するとも人間界に属するとも言えないようなものであり、人間存在のこのような側面を自然科学的アプローチで捉えるのは難しいという。
哲学者のマルクス・ガブリエル(1980年-)は、その著書『I Am Not a Brain』の中で、人間というのは、唯一、「自分に対する概念(self-conception)」を形成する心的な動物であるとしている。人間は、己がどういう存在であるのかという自己理解のあり方によって、自分の振る舞いも他人に対する態度も変わり、それがひいては正義、道徳性、自由、家族といった制度自体をも変えていくという双方向性を持っているのというである。
近代経済理論は、生物進化ではなく物理学の世界をモデルに構築されてきたことから、歴史的経緯とは無関係にロジックだけでモデルが作られ、長らく時間や空間が重視されずにきた。しかしながら、経済学は客観的に事実を写し取る学問ではなく、これも制度のひとつである。例えば、マクロ経済学は、元々、「どうやって経済に介入すればその効果を把握できるのか」という観点で作られた。
経済学者はモデルで結論が出ると、現実もそうなると思ってしまうところがあるが、ミクロ経済学やマクロ経済学は、ある仮定にもとづいたフィクションであり、あたかもそれを真であるかのように語るべきではないのである。そうだとするなら、これからの時代に自分たちがどうなりたいのかということに応じて、新しい視点を経済学に取り入れていくことが必要だというのである。
かつて経済学の入門書では、「経済学は社会科学の女王である」という言葉がしばしば用いられた。これは、経済学が演繹的・数学的な方法論を確立させた学問領域であり、社会科学の中で最も自然科学的な意味での経験科学に近い学問であるという意味だった。
これに対して、経済史家のロバート・アレン(1947年-)が「経済史は社会科学の女王である」と宣言したのは、時間と空間のなかで経済を考えるべきという意味である。アダム・スミスの『国富論』の正式タイトルである『諸国民の富の本質と原因に関する探求』とは、富がいかに生まれて現在があるのかの探求なのだと理解する必要がある。今日、経済史に再び脚光が当たってきたのは、歴史の考察を通じて、我々が今立っている地点を知りたいという要求が日増しに高まっているからである。
地球を人間が創り出している世界と見るなら、これを自然科学だけでなく、人間科学や精神科学の対象としても考察しなければならない。経済学が経済現象という客観的対象を受動的に分析するだけでなく、それ自身が経済現象を形作っているという「遂行性(performativity)」を内包している以上、人間科学として人間存在の本質を絶えず問い直しながら、自らを反省する包括的・学際的な学問になっていく必要があり、経済学者もそのことに自覚的でなければならないのである。
これまでは、経済学者のライオネル・ロビンズ(1898-1984年)が「経済学は心理学とは関係がない」と宣言したように、経済学は稀少性についての学問、つまり数学的な問題を扱う学問であるから、「経済学は人間の心理的本性にはかかわらない学問だ」という言い訳も可能だった。
しかしながら、これからはそれでは立ち行かない。一例を挙げると、マクロ経済学の教科書では「貨幣は物々交換から出てきた」と説明されるし、経済学者はこれまでそうした説明しかしてこなかった。しかし、今やそれでは貨幣と人間の関係は理解できないことが明らかになってきており、歴史的証拠から見ても間違いであると主張する研究者が登場してきている。
例えば、人類学者のデヴィッド・グレーバー(1961年-)の『負債論 貨幣と暴力の5000年』や、エコノミストのフェリックス・マーティンの『21世紀の貨幣論』には、人間がどのように貨幣を使ってきたのかが詳細に書かれている。
経済学には、貨幣は単に財やサービスの名目的価値だけに関わるもので、貨幣自身は経済の実質には関わらないという考え方が根強く存在している。経済学者が経済をモデル化する上で、これまでは貨幣の変動が実体経済に与える影響を軽視してきたが、グレーバーらによれば、貨幣は物々交換を容易にするために発生したのではなく、貸借の記録という会計、つまり信用の機能から発生したのである。
同様に、世界中で大きな反響を呼び起こしたトマ・ピケティ(1971年-)の『21世紀の資本』も、資本主義が人々の富と所得の分配に対してどのような影響をもたらすのかを調べる上で、標準的な経済学のモデルを予め想定してそれを用いるのではなく、現実の歴史的データを用いて分析し、r>gという不等式によって、富を持つ者の収益率rが所得の成長率gより大きいことが経済格差を大きくする原因であるという理論を提示した。経済学者たちにとって何より衝撃的だったのは、こうしたデータ先行の研究による結論が、彼らにとって予想外のものだったことである。
上述した「遂行性」という言葉は、近年、社会学者や経済学者の中でも用いられることが多くなってきた。社会科学において客観的な言明が可能だとしても、同時に社会科学は概念構成を通して社会に対して作用しており、単にあるがままの現象に対峙している訳ではない。経済学もまた、それ独自の概念構成を作り上げることで、それが記述の対象としている我々の社会に対して遂行的な影響を与えているのである。
従って、我々が人間の本性を単純化して捉えてしまうことで、社会における我々の自己理解をも単純化してしまい、それが社会制度を変化させるという遂行性が作用してしまう。人間は主体的に「制度をつくるヒト」であり、人間のこうした制度的存在としての側面は、自然主義的アプローチでは捉えられないし、人間本性をそれだけで把握できると考えるのは間違いなのである。
勿論、行動経済学がこれまで一定の成果をあげてきたことからも分かるように、人間の行動に対する自然主義的アプローチも、それ自体が悪いという訳ではなく、人間、社会、制度などの様相を多様な観点から見ることをせずに、無自覚なまま我々の人間観が形成されてしまう危険性は十二分に理解しなければならないということである。
経済学が人間行動をも対象とするようになった現在、むしろ自然主義的アプローチをも包含した「人間科学」として、経済学が人間存在の本質を絶えず問い直しながら、自らを反省する包括的な科学になっていくべきではないかというのが、本書における筆者の最大の投げ掛けなのである。