それってホントに伝統ですか?
この本を読むとあなたの中で「伝統」という言葉の持つ意味が変わってくるかもしれません。結論から言ってしまうと、こういうことになります。
「歴史的に見れば、伝統とは、ちょっと長めの流行にすぎません。」
そもそも伝統という言葉は “tradition”の訳語として明治時代に作られた比較的新しい言葉だそうです。新聞などで伝統という言葉が使われるようになるのは、明治の末期になってからとのこと。伝統という概念を日本人が意識するようになって、まだ100年ちょっとしかたっていないというのです。伝統というとなんとなく、江戸時代とかもっと古くからあるものだと思っていたので、この指摘はとても意外でした。
過去の日本人は、自分たちの都合でたくさんの伝統を作りだし、たくさんの伝統を捨ててきました。長年続いていたのにあっさりとやめてしまった伝統もあれば、数回、数年間やっただけで、伝統を自称している例もあるそうです。ですから、伝統を守らなきゃいけないなんて義務はどこにもないわけです。伝統とは、ちょっと長めの流行にすぎないのですから、必要以上に祭り上げたり、ありがたがる必要もありません。また伝統という言葉を目にしたとき、それは本当に古くからあるものなのか?というのは一度疑ってみる必要があります。
たとえば、恵方巻。出自には諸説ありますが、節分にその年の恵方とされている方角を向いて太巻きをかじるという風習は、もともと大阪の船場地区だけで行われていた伝統行事であったと言われています。しかし歴史文化の研究者が調べたところ、船場にそんな伝統が根付いていた様子はありませんでした。文献などから、船場の数件の商家だけがやっていた、ということまでは突き止められたそうですが、それを伝統と呼ぶには無理があります。
たとえていうなら、毎週日曜日はお父さんがカレーを作るのだ、みたいな「わが家の習慣」が商業的な戦略によって全国に広まってしまったようなのです。
これ、めちゃくちゃ笑えませんか?似たような例が世の中にはたくさんあると思われます。ですので、伝統を売りにしているものを目にしたときには、それってホントに伝統ですか?と疑う癖をつけたほうがいいかもしれません。
ところで今回、著者がこの本を書くために調べ物をしていて、あるおもしろい発見をしたそうです。というのは、1930年代になると伝統が突然輝きだしたというのです。といってもオカルトや超常現象ではありません。伝統と電灯をひっかけたダジャレでもありませんので、あしからず……。とりあえず例を見てみましょう。
輝く伝統の早慶戦 遂に再び中止の運命
伝統は輝く 漆器の輪島町
伝統に輝く養鶏大国
これらは戦前の新聞や書籍の見出し、小見出しから取り上げたものだそうです。伝統が輝くという日本語は早慶戦だとか阪神巨人戦などスポーツを中心に、いまでも当たり前のように使われていますが、これってどこか変だと思いませんか?伝統っていうのは基本的には古いものですよね?古いものに対して「輝く」という形容詞が似つかわしいとは思えません。というのも、本来、「輝く」というのは新しさや、若さにまつわるものにつく形容詞だからです。その対極にあるような伝統が輝くというのにはとても違和感があります。古い骨董品がピカピカに輝いていたら、それは偽物だと疑いたくなるはずなのですが……。
そんな伝統が輝くという言葉は国粋主義=日本は凄い、日本は素晴らしい。といった概念を浸透させる政治・社会運動の台頭とともに戦前に広がっていったそうです。日本は凄いというようなテレビ番組や、本をたくさん目にするようになった現代にもなんだか通じるものがありますね。輝く日本の伝統をみたいな言葉を目にしたときは少し警戒が必要です。
本来、伝統というものはローカルで多様性のあるものです。それぞれの地域や共同体で淘汰されることなく、長期にわたって続いた行為や風習を伝統と呼ぶのですから。ということは国家全体で統一された伝統というものは存在しないはずなのです。日本人全員が共有する「日本の伝統」と称するものは、そういった地域ごとの多様性を無視しているわけで、その存在は歴史的にも文化的にも疑わしい。だから日本の伝統なるものは、だれかによって捏造されたフェイクな伝統ではないのか?というのは検証する必要がありそうです。
ちなみに、日本人の感覚では30年続けば輝かしい伝統であると自ら誇示しても許されるそうです。30年を長いとみるか、短いとみるかは人それぞれだと思いますが、その程度で名乗れる伝統というものに対して、「それってホントに伝統ですか?」というスタンスは常に持ち続ったほうがよいと思います。意外と伝統っていうのは新しいものだということは知っていて損はないはずです。
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