端正な本だ。内容に不釣合いなカバーと帯を取りはずすと、表紙には原寸大に近い一面の硯が刷られている。装丁だけでなく、紙質や印刷も素晴らしい。ゆっくりと味わうように読んだ。
著者は書道道具店の四代目。浅草の店では定番の筆や墨なども取り扱っているが、高級な硯は代々の店主がみずから原石を内外で買い付け、手作りで調製したものだ。文化財レベルの硯の修理なども手がけており、世界中のプロから頼りにされているという。
帯には「冒険とうんちくの書」とあるが、これにはいささか違和感を覚える。本書はIT起業家などとは対極の世界観を持つ男の誇りと決意を書いた本だ。
硯の原石は古来より辺境の深山幽谷にあった。著者は日本や中国の山々に分け入り、まさに命がけで原石を探し出す。三代目の両親は山賊に襲われたこともあるという。しかし、それは冒険が目的なのではなく、唐や宋の名工たちの精神を追体験するための修行でもあった。
やがて原石は浅草の仕事場に運び込まれ、製硯作業が始まる。硯はミケランジェロの彫刻と同様、すでに原石の中にその形で存在していたかのごとく、掘り出されてくる。
彫刻との違いがひとつある。著者は名を残す芸術家ではなく、無名の名工として存在したいと望んでいるのだ。それは職人としての誇りであり、作品は見てもらうのではなく、使ってもらうことを目的にしているからである。
1億年以上前に生まれた原石に、1500年前の唐の人々は命を吹き込んだ。硯が道具である以上、彫刻とはちがい機能性が求められる。それゆえに著者は石の地球史と硯の文化史を身体で感じながら、未来へと繋いでいこうと決意している。
読みながら硯と墨と筆が欲しくなった。大きな紙に薄墨で「天」とでも書いてみよう。明日にでも浅草に出向いて著者に教えを請うてみよう。
※週刊新潮転載