「この銃はドイツ製だと思う」
「あの場面で出てきた髭を伸ばした人たちはおそらくIS関係だろう」
シリアの内戦下に生きる若者を追ったドキュメンタリー映画『それでも僕は帰る シリア 若者たちが求め続けたふるさと』の配給をしたときのこと、ある朝日新聞記者にトークイベントで協力してもらった。彼は同社の中東特派員として計5年間、中東・アフリカ圏の紛争取材等にあたったのち、インドのニューデリー支局長を務めた人物だ。「自分の身は自分で守らねばならない」環境下で生き抜いてきた彼の、映画を観る視点は一般の人なら気づかないようなものばかりだった。
その記者こそが、本書『沸騰インド』の著者、貫洞欣寛氏だ。一昨年に朝日新聞を退社したのち、追加取材も行って書き上げた本書には、紙面では書ききれない情報量と多面的な洞察が詰まっている。
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インドは今、猛烈なスピードで成長を遂げている。人口は2022年までに中国を抜いて世界最大となり、経済も現在の7%台の成長が維持されれば、10年ほどで日本の国内総生産を追い越し、米国、中国に次ぐ世界第3位の経済大国になると予測されている。
この成長を牽引しているのが、2014年に首相に就任したナレンドラ・モディだ。このモディという人物が非常に興味深い。
まずは情報の統制力。記者の自由な質疑に答えるような「記者会見」は、少なくともインド国内では一度も開いたことがなく、閣僚にも個別のメディア対応を禁じている。一方、ツイッターでは英語やヒンディー語で頻繁に投稿し、月に1回は国営ラジオで定例演説もする。モディのスピーチや日々の行動のニュースを配信する10言語対応の無料公式アプリも作られている。一般的なメディアでは寡黙さを貫き、独自のプラットフォームでは雄弁に語る。こうしたスタイルを貫いていれば、日本のような失言による失脚のリスクもかなり回避できるだろう。
モディの指揮力はメディアに対してだけではない。様々な政策も、各省庁からのアイディアではなく、首相官邸からのトップダウンで生まれている。
2016年11月には、モディがテレビ演説で、高額紙幣の1000ルピー札と500ルピー札をその日の深夜0時をもって無効にする、という突然の発表をし、インド全国民を驚かせた。あまりの強引さに当初は批判が集まったが、これは「ブラックマネー」を一気にあぶりだすことになり、のちに一般市民からの評価は高まった。さらにこの高額紙幣の廃止は、現金決済からの社会の転換とキャッシュレス社会の実現も目論まれており、以降、特に都市部では、デビットカードやクレジットカード、スマートフォンを使った電子決済システムなどが急速に広まることにもなった。
こうしたモディの姿を、筆者は「インドに現れた初の「開発独裁型」リーダーかもしれない」と表現する。モディのリーダーシップに期待し、インドから世界に飛び立ち活躍していた移民たちが、今、インドに戻り、ブレーンとしてモディを支えてもいる。
「経済成長を重視する実務家」としての顔とは別に、モディはヒンドゥー・ナショナリストとしての顔ももっている。モディが若い頃に強く影響を受けたのが、宗教の普遍性と融和を説き、インド各地で教育や福祉活動を行った宗教哲学者スワミ・ヴィヴェカーナンダと、ヒンドゥー教を軸にインド社会の組織化や近代化を目指すヒンドゥー民族主義団体、民族義勇団(RSS)だ。首相に就任して以降は、そうした思想を表立って出すことはないものの、インドで起きたイスラーム教徒を弾圧するような事件の裏側に関与しているという噂も複数浮上している。詳しくは本書に譲るものの、このあたりの視点やイスラーム教徒への取材姿勢は、中東特派員として、イスラーム教圏の取材にも長らく当たってきた筆者ならではのようにも感じる。
ちなみにモディは、「その他後進階級(OBC)」と呼ばれるカーストに所属する一家に生まれ、父親は国鉄駅のお茶売りを生業としている。家計が苦しかったため、モディも幼い頃から父の手伝いをしていた。
HONZだからこそ特筆しておきたいのは、モディが小さい頃に周りの子供たちと違ったのは「読書量」とのこと!常に学校の図書室に入り浸り、本を読んでいた。特に偉人の伝記が好きで、インドの独立運動の歴史にも関心が強く、その頃の古新聞もすべて読破したという。
高校卒業後、インド各地を放浪した時期もあった。「二晩と同じ家で食事をすることはなかった」と語るなど、様々な人に食事や宿の提供を受けていたという話に、これまで長短様々に「居候生活」をしてきた私は、おもわず食いついてしまった…。
そんな「普通」で、決して裕福ではない家に生まれたモディ。彼の家族たちは、従来のインド高官の親族と異なり、今もモディに寄生することなく「普通の生活」を送り続けている。モディはモディで、首相として受け取った記念品や贈り物は競売にかけて換金し、貧しい少女への奨学金にしている。
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…と思わずモディへの強い関心でここまで書き連ねてしまったものの、本書自体は、もっと多角的な視点から、「現在のインド」を伝えている。
なかでも「英語大国」であるインドの実情…、憲法をはじめとした法律も最高裁判所の審理や判決も、連邦議会の使用言語も英語が占めるほど、英語から免れられない国であることや、その背景にあるインドの「多様性」、そして英語が生む”格差”が火種となっている「火薬庫」の話なども、意外に知らない事実の連続だった。
モディの”独裁的”とも言えるリーダーシップによる急速な経済成長と、その陰で残り続ける様々な小さな火種。沸き立ってきたインドがこの先どこへ向かうのか?そしてそのインドと日本はどう向き合うのか?本書から伝わってくるその「湯気」に触れたら、インドの今後の動向に目を向けずにはいられなくなるだろう。