羊水穿刺で胎児の染色体検査をうけた。告げられた結果は陰性。しかし、生まれた赤ちゃんはダウン症だった。産科の医師が検査結果を見落としていたのだ。天聖(てんせい)と名付けられたその子にはさまざまな合併症があり、三ヶ月で亡くなった。そして、訴訟がおこなわれた。こう書けばシンプルだが、ここには三つの大きなジレンマがある。
そのうちのひとつは、天聖君への慰謝料請求の妥当性だ。知らなかったが、この事例のように医療従事者が過失をおこさなかったら苦痛に満ちた自分の出生が回避できたはず、という裁判はロングフルライフ(Wrongful life=「不当な生命」と訳せばいいのだろうか…)訴訟というらしい。「生まれなければ苦痛がなかった」ことに対する慰謝料。しかし、はたして生まれなかったほうが本当に損害は少なかったといえるのだろうか。いったいどの立場からどう考えればいいのだろう。それすらよくわからないほど難しい問題だ。
検査結果が正しく伝えられていれば、おそらく人工中絶をうけていた可能性が高い。だが、母親は生まれてきた子どもを見て、本当にそうすべきだったのかを自問するようになる。中絶しようとしていた命と、生まれてきて手に触れた命。等しいようで決して等しくない。これもジレンマだ。
もうひとつは制度上のジレンマである。かつての優生保護法は平成8年に母体保護法へと改正された。その際、優生学的な思想への反発から、胎児条項が設けられなかった。わが国においては、胎児の異常を理由とした中絶は認められていないのだ。訴訟では、この点も争われた。被告側は、出生前診断による中絶は法律で認められていないのだから、それを根拠にした損害賠償を求めることは不可能だと主張した。
医師の過失は明かで、賠償金の全額支払いが命じられた。ただし、ダウン症の子を産むかどうかを選択する権利と、産むと決めた場合に準備する機会が失われたことに対する親への慰謝料のみであって、天聖君に対する損害賠償は一切認めらなかった。
ひとつの『選べなかった命』が提議する問題はここまで重い。命の選別、命とは何か、そして、法整備はどうあるべきか。医学が進歩し、こういったことを誰もが真剣に考えなければならない時代がやってきた。そのことを痛切に感じさせられる一冊だ。
日本医事新報『なかのとおるのええ加減でいきまっせ!』から転載