立命館アジア太平洋大学(APU)を訪問した興奮もさめやらぬ中、別府の繁華街へと繰り出す。出口治明学長はじめAPUのみなさんが懇親会の場を設けてくださったのだ。
この日は「べっぷ火の海まつり」が開かれていて、駅前の目抜き通りはたいへんな賑わいだった。
ところで、APUの噴水の話をおぼえているだろうか。噴き上げられる水の高さをめぐってHONZのメンバー間をフェイクニュースが飛び交っていたという話だが、この流れに乗っかって、ぼくもちょっとしたフェイクニュースを流してみることにした。そのネタとは、
「別府の駅前に仲野徹がいる」
である。スケジュールの都合で訪問が叶わなかったメンバーの中でも、特にFacebookでうらやましさ全開のコメントを連発していたのが仲野であった。「仲野先生、ホントに参加したそうだったねー」とことあるごとに話題にのぼっていたため、「なんなら駅前にいるけど?」と言ってみたのである。当然のことながらメンバーの反応は、「は? 仲野先生が?」「なんで??」と訝しげであったが、駅前で独特のポーズをとるブロンズ像を目にした途端、驚愕の声があがった。
「仲野先生だ!」「すげぇ、ホントにいた!」「仲野せんせー!」 みな仲野の名を連呼しながらいっせいにスマホを向ける。近くにいたおじさんが「ナカノじゃねーで、熊八さんじゃ」と笑っている。そう、おっしゃるとおり、このブロンズ像は「油屋熊八(あぶらや・くまはち)」という人物なのだ。
油屋熊八は、別府を日本有数の温泉観光地に育て上げた立役者である。熊八の人生は波乱万丈だ。伊予国宇和島の米問屋に生まれ、大阪で米相場師となり巨万の富を築くも、日清戦争後の相場で失敗、一文無しになり、妻を残し単身アメリカへと渡る。彼の地でキリスト教との運命的な出会いがあり、洗礼を受けた後、38歳で帰国。聖書で出会った旅人をもてなせという教えに従い、妻の実家だった別府の「亀の井旅館」という小さな宿の主におさまる。ここからが本領発揮。熊八は持ち前のアイデアと行動力で、亀の井旅館を有名ホテルに成長させただけでなく、別府の街そのものを一大観光地へと育てあげるのだ。
地域を活性化させるには「若者・ヨソ者・バカ者」の力が必要と言われるが、熊八はそのすべてを兼ね備えていた。富士山に「山は富士 海は瀬戸内 湯は別府」と自作の標語を書いた柱を立ててみせたり、有名な「地獄めぐり」を考案したり、女性バスガイドが案内する観光バスを日本で初めて走らせたり、次から次へと奇抜なアイデアを繰り出して世間をあっと言わせた。
大の子ども好きとしても知られ、童話の読み聞かせなどをする「オトギ倶楽部」を主宰し、子どもたちからは“ピカピカのおじさん”と呼ばれ慕われたという(そういえばブロンズ像のマントの裾には小鬼がぶら下がっている)。
センスのいい温泉旅館や映画祭や音楽祭など町ぐるみのイベントで知られる湯布院も、もとはといえば、熊八が別府の奥座敷として開発したものだ。油屋熊八は、まさに現代でいうところの「イノベーター」だったのだ。
宴がスタート。HONZメンバーだけでなく出口さんの知人なども飛び入り参加して大盛り上がり。中には大分名産のカボスを持ち込んでふるまう人もいる。さすが大分の人間。熊八の精神で旅人をもてなしている。メンバーにも「もう食べられない」とか言わせないぞ。
ところで、この機会に出口さんにぜひうかがってみたいことがあった。出口さんはこれまで膨大な量の本をお読みになっている。とりわけ歴史に関する圧倒的な知識と見識は誰もが知るところだ。うかがいたかったのは、出口さんの目に人類の営みはどう映っているのかということである。長い歴史の中で、人類ははたして賢くなっているのか、それとも相も変わらず愚かな行為を繰り返しているのか。歴史に通じるということは、もしかするとニヒリズムと表裏一体なのでは?と思ったのだ。
出口さんの答えはポジティブで明解だった。
「人類の歴史の中で、悲観論が勝利したことは、これまで一回もないんですよ」
出口さんは悲観論の代表としてマルサスをあげた。マルサスは1798年に発表した『人口論』で人口の増加が食料の増産を上回ると警鐘を鳴らしたことで知られるが、現実はそうはならなかった。出口さん自身も高校生の頃に、石油があと30年で枯渇するとさかんに言われていたが、その後、悲観的な予測が敗れ去るのをご覧になっている。人類はこれまでなんとかやりくりしながら一歩ずつ前に進んできているのだ。
なぜ悲観論者は敗北するのか。出口さんは、テクノロジーへの視点を欠いていたからだとこれまた明解におっしゃる。「だから大丈夫です。これからもなんとかなりますよ」
お話をうかがいながら、APUライブラリーで行われたワークショップを思い出していた。質疑応答で、大学院生だという女性が質問に立ったのだ。彼女は40歳でAPUに入学し、子育てをしながら勉強を続け、もうじき大学院を卒業するという。だが、これからどんな道に進んだらいいかが見えず、焦りを感じていると訴えていた。そんな彼女に出口さんは、「自分のやりたいようにやったらいいですよ。人生100年やのにまだ半分も行ってへんやないですか。大丈夫、なんとかなりますよ」と力強く背中を押していた。
今回の旅のキーワードのひとつは、この「悲観論にとらわれない」ということかもしれない。多様性の中で混ざりあう学生たちにポジティブな未来を感じ、出口さんの謦咳に接して、これまた「人生なんとかなるんじゃないか」と感じている自分がいる。なんだか、とっても晴れやかな気分。来て良かったなぁ。じゃ、かんぱ〜い!
地元の人から声をかけられ、気さくに会話する出口さん。聞けば学長就任のニュースをきっかけに出口さんの著作に触れ、いまではすっかりファンなのだとか。APUは地元の自慢のようだ。
APUを誘致するきっかけをつくったのは、故・平松守彦前大分県知事である。「一村一品運動」を提唱したことで知られ、全国に先駆けて地域のブランディングに乗り出した名物知事だった。「グローバルに考え、ローカルに行動せよ」が信条だった平松氏もまた、熊八のようなイノベーターだったと言えるかもしれない。APUという革新的な大学が、この大分の地に誕生したのは、たぶん必然だったのだ。
夜の街に通じた職員の方(注:変な意味ではない)に案内していただき、一行は路地の奥へと進んでいく。途中までみんな一緒だったはずなのだが、あれ? 気がつけば、はぐれてしまっているじゃないか!
翌朝、楽しかった別府を後にして、HONZ一行は出口さんとともに大分へ。
大分駅前でわれわれを出迎えてくれたのは、堂々たる大友宗麟像。大友宗麟は戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍したキリシタン大名である。幼い頃から病弱で、けっして武芸に秀でているわけではなかったが、かわりに広く世界を見渡す目を持っていた。武力よりも、むしろ経済力と外交力とで戦国の世を生き抜いた武将である(詳しくは安部龍太郎の『宗麟の海』をどうぞ。大分合同新聞連載の歴史小説だ)。
そういえば子どもの頃、近所に「アルメイダ病院」という変わった名前の病院があって、「アンドロメダ病院」だと思い込んでいる同級生がずいぶんいたのだが、ルイス・デ・アルメイダは、宗麟の庇護のもと、日本で初めての西洋医術にもとづいた総合病院を建設した人物だ。このように宗麟は、新しい南蛮文化を柔軟に取り入れた。
大友宗麟、油屋熊八、平松守彦。大分には、イノベーターの系譜がある。出口さんはもちろん、APUの学生たちも、その系譜に連なっていると思う。
一行はその後、大分の経営者の方々との昼食会にのぞみ(こんなに大分経済界の重鎮のみなさんが集まるとは知らず、動揺のあまり挙動不審になるメンバー続出!)、その後は県立美術館で、出口さんとHONZ代表の成毛のトークイベント「よりよい読書のために〜なぜ本を読むだけではダメなのか?」が行われたのだが、折しも台風上陸のタイミングとあって、翌日に仕事のあるメンバーは各自、後ろ髪を引かれる思いで大分を後にしたのだった。
異質なもの同士で混ざること。多様性を受け入れること。新しいことへの好奇心を持ち続けること。そしてなによりも、悲観論にとらわれることなく、人生を楽しむこと−−。
今回の旅ではHONZメンバーにふるさとの魅力を教え込んでやる!と意気込んでいたのだが、なんのことはない、大分の人たちから大切なことを教えられたのは、むしろこちらのほうだった。
時代は変わっていく。それとともにふるさとの人々も新しい道をいろいろと模索している。でも大丈夫。なにせイノベーターの伝統がある土地である。新しいアイデアがきっとまたこのふるさとから出てくるはずだ。いや、その萌芽はすでにもう、天空のキャンパスに生まれているのかもしれない。
HONZ in APU