知らないことを知りたい。見たことのないものを見たい。そういう好奇心がなくなったら、人生お終いだと思っている。しかし好奇心が生み出す無邪気さは、時に歓喜と絶望の両方を生み出す。そんなことを痛感させられる一冊だ。
かつてNHKスペシャルで放映された「最後のイゾラド 森の果て 未知の人々」を記憶されている方も多いことだろう。イゾラドとは、文明社会と未接触の先住民を言い表す総称である。アマゾン源流域、ブラジルとペルーの国境地帯に住むとされるイゾラドは、部族名や言語はもちろんのこと、今何人いるのかも分からない状態であるという。
番組では、素っ裸で弓矢を持つイゾラドに村人たちが接触する様子が映し出され、その光景には衝撃を受けた。この時に、チョイ役のような感じで登場していたロメウ。彼こそがイゾラドを理解するための重要なキーパーソンであり、本書の主人公だ。
ロメウは、ペルーの先住民・イネ族の出身であった。父の代までイゾラドであったものの彼自身は文明化された後の環境で育ち、村のリーダーとして精力的に働いている。そんな彼のもとへ、ペルー政府から応援要請が届く。部族名も言語族も分からない謎の先住民が、辺境の人々を襲う事態が頻発し、恐怖と不安が広がっていたのだ。
このロメウの視線を借りることによって、イゾラドと遭遇することの喜び、そしてこれから起こりうる悲劇的な運命を予感させていく。
出会いは突然であった。ある日、川の向こう岸から突然やってきたイゾラドが「傷ついた仲間がいる」とロメウに助けを求めたのである。ジャガーにかまれた少女の足を、大急ぎで駆けつけた医師が治療をし、やがてバナナをあげることから交流が始まった。
彼らとのやり取りを通じて、不思議な感情で胸がいっぱいになるロメウ。初めてなのに懐かしい、そう感じた要因は彼らの言葉にあった。ロメウの祖父母が話していたイネ族の言葉とイゾラドの言葉が、単語も抑揚も喋り口も、とてもよく似ていたのである。
さらにロメウの脳裏を、イネ族の間に古くから語り継がれてきた伝承がよぎる。それはロメウの曾祖父の時代のこんな物語であった。
ゴム農園で奴隷にされた5人のイネ族の男が、パトロンを殺した。木の棒でめった打ちにしたのだ。
5人の男は仲間を奴隷小屋から救い出し、共に森へ逃げた。迫り来る追っ手から逃げながらが、誰かが言った。全滅だけは避けよう。二手に分かれて逃げよう。
故郷での再会を誓って、彼らは森で別れた。一方はこちら側の森へ逃げ、もう一方はあちら側の森へ逃げた。
その後、生き別れた仲間たちを探しきれなかった曾祖父たちは、その思いを、子孫たちに代々語り継いできた。「ノモレ(仲間)に会いたい。ノモレ(友)を探してくれ」
そんなロメウにとって、一つの疑念がわき起こってくるのは必然であった。もしかして、対岸に現れている人々は100年前に強欲なゴム農園から逃げるとき、森で離れ離れになった一味の子孫ではないのか?
疑念を確信にかえる要素は、いくつもあった。たとえば彼らの母集団が暮らす集落にバナナがあるということ。バナナは元々はアマゾンのジャングルには存在しない果実である。どこかのタイミングで文明社会と接触していなければ、バナナの栽培を行うことは難しい。
もう一つは病原菌への免疫があるように見受けられたことだ。多くのイゾラドは、文明社会の人と握手をするだけでも、想像を絶する酷さと速さで病原菌が伝染し、一つの集落があっという間に死に絶えてしまうこともあったという。しかし彼らにそのような兆候は見えない。これは、彼らが私達の社会とかつて接触していたことを意味するのではないか、そうロメウは確信する。
ロメウとイゾラドが交流したのはアマゾン川源流近くのアルト・マドレ・デ・ディオス川。この川が私達とイゾラド、2つの世界の境界線の役割を演じる。川の両岸ではルールが違う、生き方も違う、価値観や道徳観も違う。そこへ文明化という不可逆な横風が吹き、境界線を何度も書き消そうとする。
しかし、元イゾラドの先住民であるロメウは、境界線の真ん中に立ちながら自分のアイデンティティを自問自答し、それがイゾラド社会への想像力を生み出していく。
いついかなる時も、悠然と流れ行く川。それは時間のメタファーでもある。同じ川の流れを見ても、喜びを感じるものと悲しみを感じるものがいるように、同じ時を過ごしながら、全く異なる時間軸で捉えるものがいる。
本書を読んだ誰もが、イゾラドの社会を文明化した我々の視点ではなく、イゾラド自身の視点で理解したいと願うはずだ。しかしそのためには、未だ接触しえない人々と深く接触し、文明化させることなく、ありのままの姿を観察しなければならない。
はたしてこれは、永遠に叶わぬパラドックスなのだろうか。そして、たとえ文明側の視点であったとしても、彼らが消えゆく前に語り継いでいく必要はないのだろうか。まさに観察者効果の典型のようなものが根底にあるわけだが、TV番組の映像に色めき立った自分を自覚しているがゆえに、突きつけられるジレンマは重い。