あれから34年――。グリコ・森永事件と聞くだけで、今もって重苦しい嫌な気分になる。様々な出来事、想い出とともに、結局は未解決に終わってしまったからだ。事件の真相も、「かい人21面相」も、闇に消えた。無念である。私は事件当時、読売新聞大阪本社で大阪府警捜査一課担当の記者だった。以来、持ち場や部署が変わろうと、どんな異動があろうと、完全時効が成立するまでの16年間、ずっと事件を追ってきた。時間が経過する中でにじみ出てくる新事実もあると、時効成立後も取材を続けた。欠けたる事件像を自分なりに少しでも肉付けしたいと、退職後の今も取材を続けている。
そんな中、NHKスペシャル取材班『未解決事件 グリコ・森永事件 捜査員300人の証言』が文庫化されることになった。実に喜ばしい。それは決して事件を風化させてはならないからだ。私もそのテレビ番組などに若干なりとも協力させていただいただけになおさらである。本書に登場する捜査員たちは皆、私にとってはvs21面相の言わば”戦友”。実名の大阪府警捜査員は皆、取材対象だった人たちばかりだ。
事件は昭和59年3月18日、江崎グリコ社長の誘拐で始まった。当初は社長が生還したことで早期に解決すると思った。ところが、犯人らは人質という切り札がなくなったにもかかわらず、放火、カップル襲撃と犯行をエスカレート。さらには報道機関への挑戦状、青酸菓子のばらまきと、わが国の犯罪史上かつてない異様な展開を見せた。マス・メディアを利用し、わずか耳かき一杯分の青酸ソーダの恐怖を武器に一般市民を人質に取る反社会的な大事件となった。次々と食品企業を脅迫し、翌60年8月12日、犯行終結宣言を出して動きを止めた。
犯人らが動いている時は現行犯逮捕を目指し、その後は割り出し捜査に重点が移った。解決できなかったのはなぜか。やはり捜査指揮や広域捜査のまずさが大きな原因だろう。事件の特異性に振り回され、情報を巧みに操作する犯人らに十分対応できなかった。とりわけ挑戦状という投げ文に警察もメディアも振り回された。虚実織り交ぜた情報戦に負けた。劇場型犯罪と言われ、犯人側の思惑通りにメディアはその舞台を提供してしまった。卑劣な反社会的事件にもかかわらず、被害者側であるはずの市民は観客と化し、警察側から離反して犯人側にシンパシーを感じるような異常な状況となってしまった。そんな中での捜査が、目に見えないプレッシャーとなって冷静さを失い、多くのミスを犯した。ツキがなかったことも大きい。逆に犯人らは悪運が強く、最後までついていた。しかし、冷静に見ると、検挙のチャンスが何度もあったにもかかわらず、それを活かせなかったのが警察。結果的に犯人らはちょっとずつ警察の上を行っていた。
本書の第2章では、その三つの現場を取り上げている。59年6月2日、焼肉「大同門」の夜は、焦りなのか、冷静さを欠いた。第三者を使ったレポを想定して訓練までしていたのに、早めに捕捉してしまったうえ、レポと見破るのが遅過ぎた。素早く判断していれば、犯人らと合流していた。この失敗で大阪府警は警察庁から信頼を失い、事件の指揮は同庁主導へと変わる。不審者がいてもへたに手を出さず、徹底追尾、一網打尽の方針が決められた。以後、キツネ目の男への職務質問を行わないなど、大事な局面で委縮してしまった。
6月28日の丸大食品脅迫事件がまさにそうだった。職質の是非については、多くの証言が紹介されているが、私はやはり職質すべきだったと思う。動いている事件の捜査は、臨機応変に現場の人間が判断しなければいけない。上にお伺いをたてたりしないものだ。それができなかったのはなぜか。その捜査指揮に当たった大阪府警の幹部が時効成立の二か月前、私の取材に語った言葉が忘れられない。「その時その時、皆、上にヘタをうたさんとこうと思って判断、指示、行動していたのだろう。私もそうだ。警察組織とはそういうもんだ」。あの時、そのような思いがあったのか。だとしたら、なおのこと悔やまれてならない。
11月14日のハウス食品脅迫事件では、報道協定まで結んで臨んだのに、それまでの失敗をことごとく活かせなかった。指示書の貼り付け場所として城南宮バス停を想定できたのに、追尾班も作らず、ベンチ裏に貼り付ける男を目撃しながら見過ごした。名神・京都南インターから滋賀方面へ振られたのもそうだ。二度目の丸大事件(7月6日)の際、犯人らは脅迫状では大阪や兵庫方面の地図を用意するよう指示していたが、実際には裏をかいて茨木インターから京都方面へ振ったのを忘れたのか。反省がない。学習できていなかった。捜査陣はこの時点で負けたといえる。大津サービスエリアではキツネ目の男を見逃した。そして滋賀県警のパトカーによる職質。基本に忠実に不審車両の前に割り込むような形で停車していれば、捕まっていただろう。
割り出し捜査も難航した。ブツ捜査は大量消費社会の壁に阻まれた。犯人らが動いた直後に現場鑑識を十分できなかったことも大きい。異例ともいえる保秘体制で情報共有もできず、組織全体の力の低下につながった。組織も大き過ぎた。船頭多くして船山に上るだ。府県警間や捜査員同士のあつれきもあった。警察庁の指示で脅迫テープの声、ビデオの男の写真、キツネ目の男の似顔絵を公開した。手詰まり状態を打開する公安的手法だった。ローラー作戦同様、動きを封じることには成功したが、膨大な情報をつぶすのに時間と労力を取られた。キツネ目の男の似顔絵については、犯人グループ特定の決め手として公開に反対する意見も根強かった。検証していけば、いわゆる「負けに不思議の負けなし」とわかる。
本書には四方修・元大阪府警本部長の「反論」が載っている。気さくな性格で、当時の部下からの評判も良かった人だ。ただ、解決に向けて懸命に捜査指揮に当たり、府警の総力を挙げて取り組んだのは間違いないとしても、その発言はやはり強気な官僚的なものだと思わざるを得ない。問われているのは、警察組織として事件を総括できていない、十分に検証されていないことだろう。解決した事件の場合は自慢話や手柄話として語られることは多いが、未解決の場合は上も下も誰もが黙して語らない。藤原享・元警察庁捜査一課長も言う。警察とはそんな組織であると。が、それでいいわけはない。失敗例にこそ多くの教訓や課題がある。そういう意味でも、戦後最大級の未解決事件であるグリコ・森永事件は、今後の捜査に役立つ情報の宝庫なのだ。それだけに本書が出版される意義は大きい。この事件の関連書籍はこれまでに何冊も出ているが、300人を超す捜査関係者らの証言を基にまとめられた本書は、これまでにない最も事実に迫るものになっていると思う。まさにこの事件の教訓や課題が詰まった”教科書”といえる。
未解決となっただけに、捜査員たちの証言の多くは苦渋に満ちている。捕り物劇の当事者だった特殊班の人たちの証言は、より際立つ。改めて事件に向き合う真摯さが伝わり、胸が痛い。私も彼らをはじめ、数多くの捜査員から話を聞いた。犯人を取り逃がした滋賀県警のパトカー乗務員は、焼身自殺した本部長の葬儀で男泣きし、捜査本部入りを志願、悔しさをバネに捜査を続けた。特殊班の連日連夜の猛訓練ぶりは本書にもあるが、彼らはガソリン不足に悩んでいた。一日訓練すると300キロは走る。私用車やオートバイにまで官給分を回せず、皆が自前のガソリンで訓練に参加していた。任途中で病に倒れて亡くなった捜査員も含め、もう何人もが鬼籍に入った。丸大事件で現金持参人役だった捜査員もその一人。「白旗は見た。が、バッグは投げなかった。投げれば、金は奪われていた。眼鏡をはずし、ハンカチで雨に濡れたレンズをぬぐった。見えなかったからと、連中に思わせるためだ。日本一の大阪府警特殊班が負けてしまった。何としても捕まえたかった」。退職した後も、私と会うたびに悔やんでいた。日夜、多くの捜査員の頑張りを目にしてきただけに、残念である。
本書ではNHKの取材で明らかになった新証言も紹介している。ハウス事件の際、滋賀県警の捜査員が大津サービスエリアでキツネ目の男を見たという。県警が独自に捜査態勢を敷いていても問題はないし、目撃したのも事実だろう。ただ、当時はキツネ目の男の存在は県警では知られていなかったはず。不審者の印象が強く残り、似顔絵の公開後にキツネ目の男とわかったのだと思う。疑問点は、実際に指示書が貼られていたのは観光案内板の裏で、目撃者が言うベンチの裏ではなかったことだ。
また、脅迫テープの声の新たな見立ても紹介している。当初は30代~40代の女性と小学校低学年の男児とみられていたが、日本音響研究所の鈴木松美氏による最新音声分析で、女性は中学生くらいで男児は複数ではないかという。科学的判断だけに可能性は十分あるが、その見立てもかなり以前から言われていたことではある。
この事件ではメディアにも問題があった。挑戦状を大きく取り上げ過ぎたと思う。犯人らは反権力・反大企業のヒーローを気取り、関西弁で庶民受けするせりふを並べ、遊び心で歌やカルタを詠んだ。が、公開されない脅迫状では、悪らつな言葉をストレートに吐き、凶暴性をむき出しにした。恐喝のプロを思わせる狡猾な手口。表は虚、裏が実の顔だ。しょせんワル。大した連中ではないのに、陽性の挑戦状から受ける印象が悪を希薄化させ、その像を過大評価させてしまったのではないか。愉快犯的な、義賊のような虚像をメディアが作り上げてしまったのではないか。決して「面白い」事件ではなかった。こうした犯罪を許した社会の目も鈍っていたのではないか。犯人らが凶悪で卑劣な反社会的グループだったことを忘れてはならない。
過熱報道への反省もある。取材競争の渦の中で、スクープを狙う業、抜かれることを恐れる性が、過熱に拍車をかけた。もともと熱しやすいのが報道の体質。他社見合いもあって、自制的に、冷静に、なりきれない。メディアの永遠の課題だろう。
メディアが犯人らの動きを報道したことで捜査に支障があったのも事実だ。ハウス事件では各社間協定を結び、報道を自粛した。直接の人質はなかったが、一般市民の安全と犯人検挙を願って、一か月近くにわたって続けた。極めて異例だったが、やむを得なかったと思う。言論の自由や国民に知らせる義務をもって協定締結に反対する意見もあったが、私はそうは思わない。もっと早く丸大や森永への脅迫の時点で結んでも良かったと思っているぐらいだ。
記事を書くに当たって悩んだこともあった。犯人らが食品への青酸混入を宣言した際、社会不安の増大を狙っていることは十分承知しながらも、市民の生命や安全を守るためには報道せざるを得ないというギリギリの選択を迫られた点は理解していただけると思う。一方、人権絡みなど読者に予断を与えないようにとの思いで書けないこともあった。犯人側の動きなどの事実をつかんでも、事件解決を最優先、捜査員に懇願されたこともあって書かないこともあった。その代わりに検挙すれば即報してくれる約束だったのだが……。その日はついにやってこなかった。
事件はバブル経済に入る直前に起きた。日本社会の地下に広がる闇の水脈の一つが噴出したのか。つけ込まれる土壌が企業にあったのか。高度情報化、都市化、大量消費社会の盲点を突いた空前の事件。何とか犯人らの仮面を暴きたい、事件の真相に近づきたい。私は、事件当時に担当だったという因縁と、旧いブンヤの意地だけで取材を続けてきた。昨年、元法相秘書でグリコ関係者でもある人物に二度会って話を聞いた。59年6月23日に政府首脳と大阪選出国会議員、警察幹部ら数人が事件をめぐって都内で密会、その三日後にグリコ終結宣言が出たという。闇は深い。
21面相は社会の海に潜ったままだ。法的な時効は過ぎても、社会的には時効はない。悪のパフォーマンス。劇場型犯罪は後を絶たない。グリコ・森永事件は元凶である。事件は多くの課題を残した。それらは警察だけでなく、企業や報道、そして市民一人ひとりが負わなければならない。市民社会を守るのは我々自身である。事件は終わっていない。
(平成30年4月、元読売新聞記者)