「スティーヴン・キングとスティーヴン・ホーキングを足して2で割ったような本」(「はじめに」より)とはよくいったものである。前者は有名なホラー作家。後者はいわずと知れた天才理論物理学者だ。そのふたりが合体するにふさわしく、本書のテーマはずばり「死に方の科学」。ここには45通りの死のシナリオが取りあげられている。今日にも起きそうな筋書きもあれば、今生では巡りあいそうにない設定もある。それぞれについてあなたが具体的にどのように死ぬかを描きながら、様々な科学知識を提供しようというのがこの本の狙いだ。
「身近な現象を科学で説きあかす本」はけっして珍しくない。ただ本書の場合、その「身近な現象」が「死」である。私たちはひとり残らずあの世に行くわけだから、考えようによってはこれほど「身近な」話題はないだろう。もっとも人間である以上、心臓が止まって脳死を迎えるという、最後の最後のところにそうそう違いがあるわけではない。だから個々の死をどんなプロセスで演出し、どんな科学を盛りこむかが著者らの腕の見せ所であり、結果的にじつにバラエティーに富んだ魅惑的な(?)な死に方が勢揃いした。
特筆すべきは、「もし●●したらこうなる」というパターンを踏襲しながらも、けっして検証不能な思考実験のみに終始していない点だ。実際に恐怖のシナリオを体験した(せざるを得なかった)人たちの話もふんだんに紹介されていて(2200匹のミツバチに刺される、エレベーターのケーブルが切れて75階分を落下する、46Gの負荷を受けて瞬間的に体重が2トンを超える、など)、それが本書に驚きとリアリティーを添えている。
こういう極限の実例や、一見荒唐無稽に思える死のシナリオに触れて気づくのは、科学を提示するうえで「死」がひとつの有効な切り口になるということだ。死すべき人を色々な環境や現象のなかに置くことで、その環境や現象の背後にある科学を解説できるのはもちろんのこと、そうした環境と人体の相互作用や、人体の機能や、生物としての人間がもつ能力や限界などに光を当てる手段ともなるのである。
死に方の多彩さを反映するように、カバーされている分野も多種多様だ(物理学、天文学、生物学、古生物学、化学、地球科学、等々)。あるシナリオでは思わず笑ってしまうくらい無理やりに、別のシナリオでは「なるほど」と膝を打ちたくなるような角度から、様々な科学的情報が示されている。後者の例として視点の秀逸さが光るのが、たとえば17章。タイムマシンで過去と未来の色々な時代を訪ね、「その時代でどう命を落とすか(またはどう生きのびるチャンスがあるか)を明らかにする」ことにより、地球の歴史と生命進化の歴史を駆け足ながらきわめて巧みに説明している。
そんな真面目で不気味な死の科学を、本書はブラックユーモアにくるんで不謹慎なまでに軽快に語っていく。そこには、著者ふたりの専門領域がうまく活かされているようだ。著者のひとりコーディー・キャシディーはスポーツライターで、もうひとりのポール・ドハティーは物理学者。臨場感とテンポのよさはスポーツの実況中継を思わせるし、ドハティーはアメリカの体験型科学博物館「エクスプロラトリアム」の上級研究員(当時)だけあって、科学をわかりやすく面白く表現するのはお手の物である。
こうした要素が絶妙に噛みあった結果、おぞましくも可笑しく、恐ろしくもお勉強になるという、ありそうでなかった一冊ができあがった。本書を読めば、死に方の科学が立派な知的エンターテインメントになることを実感するだろう。
「だからどうした」なんて野暮なことはいいっこなし。「そんなことあるわけない」と目くじら立てるのもご勘弁願いたい。ただ気楽にページをめくり、へえと驚き、眉をひそめつつもときおりくすっと笑いながら、最後まで楽しんでもらえれば幸いだ。
さて、あなたはどの死に方がお好みだろうか。
なおポール・ドハティーはがんのため、本書刊行後の2017年8月に自身が帰らぬ人となった。なんとも皮肉な巡りあわせである。謹んでご冥福をお祈りする。
2018年5月 梶山あゆみ