本書は、二つの物語である。カネボウ、新日鉄、興銀、東芝、三菱グループ、トヨタといった、日本経済界におけるエスタブリッシュメント企業。いわば、変わらない日本の象徴でもある。そして、ソニー、京セラ、ヤマト、セブン&アイ、ユニクロ、ソフトバンク、といった、戦後創業され、世の中に影響を与えてきたベンチャー企業。
「会社」と「マーケット」を取材し続けてきた「伝説の記者」が、戦後を代表する17の経営者の物語として紡いだ本書。その時代を知らない私たちが読む現代的な意義がどこにあるのか。それは3つある。日本経済を牽引してきたエスブリッシュメントを改めて理解し「財界」とは何だったのかを考えること、戦前から脈々と連なる「日本型企業の遺伝子」について理解を深めること、そして、私たちが目指すべき経営者像を知ることにある。
1. 財界とは
ひとつは、著者が「渋沢資本主義」と名付けた日本的資本主義の変遷を改めて理解することである。そこでは「日本特有の実業家社会」である「財界」を代表してきた経営者を通じて、それが果たしてきた役割について繰り返し述べられている。
渋沢資本主義を、アングロサクソン型の資本主義と分かつものは、①公益に資することを資本主義の本題とすること、②株式会社のステークホルダーを株主だけにおかず、取引先、銀行、従業員などさまざまな利害関係者におくことにある。(p.12)
財界という日本特有の実業家社会は、『総資本』の調整機能と分配機能に存在意義があった。ここでいう『総資本』とは・・・政府、公的企業、民間企業のそれぞれに蓄積された資本の総体であり、ヒト・モノ・カネの三要素を使って社会をダイナミックに活動させるパワーのことである。(p.154)
日本の財界は、この4団体(経団連、日経連、商工会議所、経済同友会)のそれぞれが競い合いつつ、役割を分担して調整するというユニークな動きをしていた。そして、政権与党である自由民主党に、ある時期まで大きな影響力を持ち、一般に政治と官僚主導で進められてきたと見なされがちな戦後の政治・経済政策の決定プロセスに、強い影響を及ぼしてきた。(p.154-155)
資本主義でありながら、もっとも重要な資本政策と労働政策を、個別企業の経営者ではなく、財界に委ねた市場システムこそ、日本的な資本主義、そして渋沢資本主義の前提条件であり、明治と戦後の二度にわたる日本の驚異の成長を可能にした仕組みだった。(p.155)
数年前から同世代の経営者仲間たちと経済同友会に参画しているが、いまひとつ理解できなかった。「財界」とは、一体何なのか。これまでどのような役割を果たしてきて、これからどのような役割を果たし得るのか。昨今では経団連についてもポジティブな評価を聞くことがない。本書では興銀の中山素平、東芝の石坂泰三・土光敏夫、そしてトヨタの奥田碩らが「大物財界人」の代名詞として取り上げられている。そして、筆者はこの「財界」の役割が衰退してしまったことを憂う。
奥田碩は、財界を改革派のメンバーで組み換え、小泉政権と歩調を合わせるように『財界改革』にチャレンジしたが、その成果がはかばかしかったとは思えない。
キャノンの御手洗冨士夫、住友化学の米倉弘昌、東レの榊原定征、奥田に続く三代の経団連会長の衰退の歴史をみれば、それは明白である。
しかし、それ以上に悲惨なのは、財界を支える哲学さえ四散してしまったことだ。日経連を潰したことが『総資本』と『総労働』という日本独自の資本主義を貫いてきた仕組みをあいまいにしながら新たな資本と労働の関係を作り上げることが出来なかった。」(p.163-164)
しかし、本書を丁寧に読んでも、十分に理解できなかったことがある。ひとつは、「大物財界人」が政策決定に影響力をもてたのが、企業による政治献金ゆえだったのか、経済団体加盟各社に対する影響力ゆえなのか、それともひとえに個人の見識と人格と行動力ゆえなのか。それがなぜ現在では存在しえないのか。もうひとつが、グローバル化した企業社会において、経済団体のような存在が個別企業の経営にどこまで影響力を持てるのかである。政府が企業経営者に対して賃上げを求めた、というニュースを見るたびに違和感を感じていた。筆者がある種のノスタルジーをもって語る、経団連と合併して消滅した「日経連」の役割について、現代的にはどのように理解すればよいのだろうか。誰がどのようにその役割を担っていくことが今後の日本経済にとって望ましいのか。
2. 日本型企業の遺伝子とは
いまひとつは、カネボウや東芝の破綻に見られた、現代にも連なる「日本型企業の遺伝子」について理解を深めることにある。
「カネボウは1930年代から戦前のある時期まで、間違いなく日本一の企業だった」(p18)。それゆえに2000年代の破綻が象徴的な出来事だった。しかし驚いたのが、著者が日経新聞に入社した1973年当時から先輩記者に「カネボウは粉飾体質の会社だ」「いずれ、カネボウは粉飾決算で倒れることになる」と聞かされていたということだ。破綻するまで30年間、どのようにして粉飾決算を隠し続けられたのだろう。それこそが、同社の特徴であり、多くの日本企業に見られる、「家族主義と共同体意識に基づくチェックなき権力のメカニズム」だという。
同様に、東芝の粉飾決算を誘引したのは経団連会長など財界における要職就任の名誉欲と経営者間の社内の権力闘争とされているが、同種の問題が50年前にすでに起こっていたことが1966年に書かれた「東芝の悲劇」という書籍でも取り上げられているという。筆者は名経営者として礼賛されることが多い、石坂泰三や土光敏夫の「影」の部分として、経団連会長としての活躍が後世の東芝経営陣に(本業より財界活動に憧れる)誤った意識を植え付けたこと、そしてこのような企業風土を変えられなかったことを掲げている。語られることが少ない石坂論・土光論である。
このようなカネボウや東芝の企業風土の問題は新しいものでなく脈々と連なるものであり、そしてこれが必ずしも個別企業の問題ではなくある意味において「日本型企業の遺伝子」と呼べるのではないか、というのが筆者の指摘である。
関連して、筆者は企業が「永遠の命を模索する」(p.103)ための仕組みとしてのコーポレートガバナンスに大きな関心を抱いている。特に、トヨタ、そして最近ではセブン&アイやユニクロでもチラつく同族企業における創業家の関わりと健全な世代交代の問題について問題意識を持っている。この点、ソニー出井伸之氏の大きな功績として、抜本的な取締役改革によって、創業家である盛田一族の影響力を排除したことを掲げている。
経営者としての評価は風当たりの強い出井だが、日本の上場企業のガバナンス改革に果たした役割を見逃してはならない。取締役会改革における、社外取締役の導入、執行役員制度の活用、さらに委員会等設置会社の本格的な活用——さらに、ROEを経営の尺度に取り入れた経営は、出井の行動力を抜きにはあり得ないことだった。
最大の功績は、井深・盛田の時代から長期にわたって続いた親族中心のクローニー資本主義の歴史を、取締役会改革によって葬ったことにある。(p.151)
私は、出井が試みた『取締役改革』を、昭和40年代後半の時価発行増資の導入に匹敵する、戦後日本企業におけるすぐれた経営改革だと今でも思っている。(p.148)
3. 経営者とは
私にとってもっとも興味深かったのは、無数の名経営者たちに直に触れてきた筆者が、理想の経営者像をどのように見ているかである。それはひいては、自分が将来目指すべき経営者像を考えるきっかけになる。
筆者が経営者を評価するには、単に「商売上手」であることを超えて、公益を考え、実践と行動によって時代にひとつの足跡を残したことを求めている。
経営者の歴史的評価を測るには、二つのポイントから見る必要がある。まずは自分が経営した会社が利益をあげる体制を作れたか。そして、本人が意図するかしないかを別にして、経営者として実践した制度改革や行動が、来るべき時代に、一つの社会的規範として定着するかどうかである。(p.148)
この点、筆者が評価するのが、戦後日本経済復活の契機を作った新日鉄誕生に奔走した永野重雄であり、その後にはヤマトの小倉昌男と京セラの稲盛和夫である。
小倉については宅急便に代表される岩盤規制の突破と、その後の障害者雇用などの社会的な活動。稲盛については京セラ、第二電電、JALの経営改革などに加えて、盛和塾による人材育成と財団を通じた多額の寄付について触れている。稲盛こそが、筆者が考える「新しい資本主義」のあり方を体現する人物である。
・・・官僚システムや既得権者たちによる岩盤規制を、企業家精神によって打ち破った。これを資本主義の精神と呼ばずに、どう名付けたらいいのだろうか。
小倉の前に小倉はなく、小倉の後にも小倉はいないのである。小倉の凄みは、官僚と既得権益を持った企業の抵抗に、真っ正面からぶつかり、これを壊したことである。官民が一体となった予定調和の資本主義を、戦後の渋沢資本主義と呼ぶならば、小倉こそ渋沢資本主義を壊した男、渋沢資本主義に引導を渡した男である。(p.131)
動脈と静脈(注:企業の利益とその社会への還流)の流れが噛み合ってこそ、資本主義の資金の循環は完結する。しかし、その2つの流れは、基本的には市場に委ねられる。意識的にコントロールして見せることに成功した経営者は少ないように思われる。松下電器産業の松下幸之助、ソニーの盛田昭夫の例をみても、一定の社会貢献や寄付をしながらも、資産の大宗は株式などを媒介として子や孫たちのおのとなり、社会に有益な使われ方はしなかった。
稲盛は早くから『会社を血族に継がせるつもりはない』と断言していた。それを守り抜いたうえで、みずからの資産の社会的活用を、早くから考え抜いたケースでもある。」(p.269)
筆者は過去20年で、ユニクロ柳井氏とソフトバンク孫氏以外に、本当の意味で語るに足る企業家が現れていないことを憂いている。本書は、日本の戦後史を学ぶ教科書であり、知られざる有名経営者たちの一面に光を当てるものであり、これからの資本主義を考える上での題材である。何より、筆者から、次代を担う経営者たちへの贈り物である。永野さん、どうもありがとうございます。