日大アメフト部による悪質タックル問題がいまだに世間を騒がしている。監督からの直接的指示の有無があったかが最初の焦点だったが、世の中の関心は日大の広報対応や会見の司会者の素性、過去のアメフト部内での暴力問題にまで飛び火した。
もちろん、今回の問題は監督やコーチの属性による部分も少なくないだろう。だが、一方で全てを個人の問題として捉えてよいのか。日本の大学スポーツに構造的な問題が潜んでないのか。米スタンフォード大学でアメフトの指導に携わる著者の指摘は参考になるだろう。
本書は問題が起きる前に発売されており、今回のような事態は当然ながら想定していない。明らかにプレーに関係ない選手の背中に突っ込む事態を想定する方が難しいだろうが、本書を読むと、そうした事態が米国では指導者が間違っても起こそうと思わないことがわかる。厳罰が処せられるため、あまりにもリスクが大きいからである。では、なぜ厳罰が処せられるか。一言で言えば、大学スポーツがビジネスとして成立している側面があるからだ。
キャンパス内の11万人を収容できるスタジアム、チャーター機での遠征、試合前日の高級ホテルでの宿泊、試合会場へのポリス・エスコート、最高10億円に達するヘッドコーチの年俸…
日本とは桁違いのスケールであることがわかるだろう。明確なルールが成立するのはお金が集まるからであり、お金が集まるから合理的なルールが整備され、管理されていると著者は説く。
その役割を担うのがNCAA(全米大学体育協会)だ。1281の加盟校、45万人の学生アスリートの活動を支援している。非営利団体であるが収入は1000億円規模という。
驚くのは、NCAAの敷くルールの細かさだ。著者がオフィスにいたとき選手のひとりが授業に必要な資料のコピーをとりたいと訪ねてきたという。著者は気軽にいいよと答えるが同僚が止める。学生に授業に必要な資料をアメフトのオフィスでコピーさせるのは、NCAAルールに違反するというのだ。コピーにしろ、ペンであれノートであれアメフト以外で使用する者以外は学生に無償で与えてはいけないのがNCAAの規則なのだ。むろん、日本人指導者が好む、学生に酒やらご飯を奢るというのも許されない。
こんな細かい規定を守れるかと思うだろう。お金を生み出す以上、規定を無視して勝利を目指す大学があらわれてもおかしくないと思われるだろう。彼らもそこには自覚的で、多くの大学が自主的に学内に「コンプライアンス・オフィス」という部署を設置している。これはいわば内部調査班だ。自分の大学が規定に違反していないか、常に目を光らせている役割を果たしている。
ガバナンスの階層がはっきりしているから、大学側がのらりくらりと逃げ切りを画策するなどという構図は成立しない。実際、NCAAの規定に違反すれば大きなペナルティーを背負う。コーチが児童虐待していたことを組織ぐるみで隠蔽した大学には66億円の罰金が科せられたケースもある。66億である。それでも、大学側は異議を申し立てず、罰金を即納した。一説にはアメフトの収益でまかなったという。NCAAのサークルから除外されることがどれほど痛手であるかがわかるだろう。
ビジネスとして成立するから、コミッショナーの権威も高いのだ。これは日本の学生アメフト連盟がほぼボランティアで成立していることと対照的だ。
もちろん、お金が発生するがためにルールがつくられることだけが、指導者の暴走の歯止めになっているわけではない。興味深いのは著者が米国では一流選手でも複数のスポーツを経験することや普通に勉学に励んでいる点を重視していることだ。結果的に選手も特定のスポーツ以外には生きる道がないと追い込まれることがなくなる。他のスポーツに比べておかしな指導者がいれば「あいつ、やばくない?」と声をあげやすくなるわけで、危ない指導者が淘汰されることにもなる。
「学生スポーツを金儲けにするのか」、「日本人はアメリカ人に比べて規律を守る」、「性悪説に立つのはおかしい」との意見もあるだろう。本書もルールの厳格化はアメリカ人のいい加減さの裏返しとも指摘している。ただ、あるのかないのかわからない指導者の良心に委ねていては、暴走の抑止力にはなりえないことが悲しいかな、今回、明るみになった。アメリカを真似る必要はないが、本書を読むことで、スポーツに励む学生をタコつぼの中に押し込んでいる枠組みをどう変えるのかといった視点が必要なことを誰もが認識するだろう。