著者の六車由実さんと初めて出会ったのは、三年前の二月に大津で開催されたアメニティフォーラム19のトークセッション「記憶の宝庫としての福祉現場」だった。
気鋭の民俗学者という前歴と、前著『驚きの介護民俗学』で提起された斬新な切り口から、お会いする前は、舌鋒鋭い才女という勝手なイメージを抱いていた。しかし、初対面の印象は全く違っていた。「すまいるほーむ」の実践について、ビデオ映像を交えながら、一つひとつ言葉を丁寧に選びながら説明される様子は、研究者というよりは、現場を愛する実践家という感じだった(話の内容が極めて論理的に展開していくところが普通の介護現場の方とは違っていたが……)。
既に『驚きの介護民俗学』は拝読していたので、六車さんが提唱する介護分野における「聞き書き」の可能性は、知識として有していたが、いざ目の前で、ビデオ映像の形で示されると、一挙にその面白さに惹かれた。
「これは一度、現場を観に行かなくては」と思い立ち、ジャーナリストや福祉関係者の友人たちを誘って、桜が散った四月の土曜日、すまいるほーむを訪問させていただいた。民家を改造した小さな事業所(定員十名)だったが、小規模なだけに、利用者さんもスタッフもみな気心が知れている感じで、とても居心地がよい。
午前中は、「思い出の味」のお寿司と茶碗蒸しを全員で作り、午後は、本書の終章に描かれている認知症の靖子さんの「人生すごろく」のお披露目会に参加させていただいた。
この人生すごろく、今でも、その一瞬一瞬を思い出すことができるほどに楽しい体験だった。すごろくのマスに止まるつど、聞き書きを通して発見された靖子さんの人生の一コマが明らかにされる。その場にいる皆で、靖子さんに向かって、「おめでとう」と大きな声で叫んだり、「杉本家バンザイ!」と万歳三唱する。そのたびに、ちょっとうれしそうな表情の靖子さんが手を合わせて深々と何度もお辞儀をする。靖子さんを中心に、みんなでその人生を追体験し、その時々の感動や思いを共有していくのだ。「聞き書き」の持つ力を教えられた経験だった。
介護現場では、利用者の方々の人生の歩みは意外にも知られていない。ケアマネジャーが作成したアセスメントシートには、既往歴や家族関係等は載っているものの、生活歴については現役時代の職業等、限られたことしか書かれていないことも多い。実際、ケアマネジャーや介護スタッフに利用者のことを伝えるにしても、介護者たる子ども自身、自分が生まれる前の親の若い時のことなど知る由もない。結果として、その人の人生を知る手がかりが乏しいままケアが行われていることも少なくない。
しかし、本書でも繰り返し語られているように、聞き書きを進めていくと、それまで援助の対象でしかなかった利用者がその生き方とともに立体的に浮かび上がってくる。介護スタッフは、長い人生を歩んできたひとりの人間として、初めて利用者に向き合うことができるようになる。手のかかる存在でしかなかった認知症の利用者が、尊敬すべき人生の大先輩と思えるようになり、愛おしくなってくるというのだから、何と素晴らしい転位であることか。
利用者さん同士の間でも、共感の輪が広がり、仲間意識が強まっていく様子も見落とせない。本書で印象に残った箇所の一つに、思い出の味(ハンバーグ)づくりを通して、ようやく皆と馴染むことができた認知症の紀子さんが本人の意に反して他の施設に移らねばならなくなった場面がある。この突然の事態に対し、利用者のカズさんが納得できないでいるシーンだ(276ページ)。
「六車さんね、私、紀子さんのこと、娘みたいに思ってきたでしょ。若い彼女を見ているだけで私は元気をもらっていたの。私もがんばって生きようって。だから、彼女がいなくなっちゃうとね、何だかね……」
「そうですね、私も本当に淋しいです。ぽっかり穴が開いたような」
「でもね、私、何だか納得できないのよね。他人が納得できないなんて言うのもおかしいけれど。もっと何かいい方法はなかったのかな、って思ってしまって。紀子さんもせっかくすまいるほーむに馴染んできたしね。また新しいところで新しい仲間を作るのは大変なのよ、年をとると特にね」
利用者同士が互いを知ることを通じて、こうした仲間意識が育まれていく様子は心に沁みる。
すまいるほーむは、介護の場というよりも、まるで地域の中にある「寄合」か、あるいは今では数少なくなった「大所帯の家族」のようだ。
定員10名という小規模な施設だからできることのようにも思えるが、小規模施設だからといって、どこでもこのような雰囲気となっているわけではない。聞き書きや数々の季節のイベントを積み重ねる中で、利用者・介護スタッフ間の介護される側/介護する側という一方的な関係が変わっていき、こうした雰囲気が備わってきたのだ。
すまいるほーむも介護保険適用施設だから、本来、すまいるほーむと利用者は、契約に基づいて、施設側が介護サービスを提供し、利用者がこれを利用する関係にある。煎じ詰めれば、ドライな関係であるが、この現場では、サービスを受ける/与えるといった感じはなく、利用者も介護スタッフもゆったりとした時間の流れの中で、一緒に活動している風に見える。それが利用者にも、介護スタッフにも、居心地のよい場所になっているようだ。
六車さん曰く、「私自身にとっても、ここは、人生で初めて得た『生きにくさ』を感じなくてもいられる貴重な居場所となっている」というのだ。
確かに、介護保険という契約制度の枠組みの下で、「寄合」や「大所帯の家族」のような場というのは矛盾するようにも見える。しかし、こうしたケアを望む利用者も少なくないだろう。同時に、このようなケアの現場に身を置きたいと思う介護スタッフもおられるだろう。
施設運営の効率化が強く要請されている状況下で、小規模施設の運営は様々なご苦労があると推察される。だが、利用者さんにとって居心地が良く、介護スタッフにとっても働きがいのある場としていくために、ケアの単位を気心の知れた関係を築ける範囲で設定し、運営していくことは大切な視点だと思う。施設運営の効率化の要請と利用者さんへの共感を伴ったケアをどう両立させていくのか、個々の施設は小規模でも、法人規模を拡大する、運営を共同化するといった試みが行われているが、更なる工夫や知恵が必要になっていると感じる。
六車さんは、本書の中で、介護保険法の基本理念である「自立支援」について、自立が過度に強調されるあまりに、老いてなお、目標に向かって、前向きに進んでいくことを強いられることへの懸念を指摘されている(336ページ)。
「老いとは、単に何かができなくなることではなく、死に向かって人生を下っていくことである。利用者本人たちは、いかに死に向かって穏やかに下っていくことができるのか、という人生最大の課題に直面しているのに、それでもなお前向きに、上昇志向で目標に向かって自立して生きることが求められるのは、あまりに酷なことではないだろうか」
介護保険法の制定作業に携わった一員として解説すれば、介護保険制度でいうところの「自立支援」とは、身体的にできることを増やしていこうといった意味にとどまらず、もっと広義の概念である。精神的な自立、自分の人生を自分で決めるといった視点を含んだ積極的なものだ。介護を必要とする人が、尊厳を保持しつつ、自分らしい暮らしを送っていけるように支援をすることが、制度の目的となっている。
そのためには、リハビリも必要だし、食事、入浴、排せつの介助など生活を支える様々なサポートが不可欠だ。再び、自らの脚で歩きたい、自らの手で食べたいという切実な思いに応える支援も重要だ。しかし、六車さんが本書で幾度も強調しているように、老いを生きる方がその場にあって人として尊重されて生きているという実感を持てるようにするには、こうした物理的な支援がただ提供されれば事足りるわけではない。利用者本人に寄り添ったケア、共感を伴ったケアがあってこそ、本人の意欲を支え、生を全うしようとする力につながる。
確かに、リハビリや身体介護といった直接的な介入は身体機能がどの程度改善したかといった計測が比較的容易にできるのに対し、こうした心を支えるケアの評価は難しい。しかし、だからといって、その重要性は勝るとも劣ることはない。むしろ基本となるものであろう。
本書で取り上げられている様々なエピソードを読むと明らかなように、聞き書きは、心を支えるケアにつながる大きな可能性を有している。
そして、その手法は、前著『驚きの介護民俗学』で示された「思い出の記」に続き、「思い出の味」、さらに「人生すごろく」と次々と新たな展開を見せている。と同時に、当初は、六車さんの専売特許であった聞き書きも、靖子さんの人生すごろくに至っては、すまいるほーむの同僚の方々によって実行され、愉快な作品として創作された。基本姿勢が共有されれば、担い手を広げることも容易なようだ。
「文庫版のためのあとがき」にあるように、最近では、聞き書きから作品制作まで一貫して、スタッフだけでなく、利用者さんも加わって全員参加で作り上げる「すまいるかるた」へと発展しているそうだ。六車さんの小さな一歩から始まった介護民俗学の更なる展開から目が離せない。
(平成30年4月、厚生労働省大臣官房審議官)