正に「青天の霹靂」と、いうヤツである。
何故、人よりホンの一寸ばかし読書が好きなだけの、40過ぎの一介のスタイリストの元に、あの開高健ノンフィクション賞と、大宅壮一ノンフィクション賞の最終候補に残る様な、本格派ノンフィクションの文庫版解説という大役が回ってくるのだろうか。
しかも本書は、あるファッション・デザイナーの評伝でもなければ、映画や演劇の衣装について考察された本でもない。自身、娘を持つ身としては、胸が抉られ、読む事すら躊躇われるような、痛ましく哀しい事件のノンフィクションである。
この、畑違いとお門違いが同じ皿に盛られてやってきた様なオファーに、正直俺はビビってたじろいだ。「無理です」と、一言電話口で言葉を発せば、こうして身分不相応を完全に自覚しつつ、言い訳めいたフレーズを羅列しなくても済んだかもしれない。
だが、僕は散々迷ったフリをしながら、必ず書かねばなるまいと思ってもいた。その「何故」の理由が、あまりにもハッキリしていた為だ。
というのも、本書の筆者川名壮志氏が、太田出版より刊行されている「ケトル」というカルチャー雑誌に、かつて僕が書きなぐった書評(というより唯の感想に近い)を、いたく気に入ってくださって、しかも! 事もあろうに、その原稿のコピーを懇切丁寧に持ち歩いてくれている、という、書いた当人自体狐につままれるような話を聞いてしまったからだ。
これほど力の入った、読ませるノンフィクションなら、いくらでも素晴らしい書評が頻出したと思うが、全盛期のマニー・パッキャオの踏み込みの如く、こうズバっと懐まで突っ込まれたら、コチラとしてはグウの音も出ないし、不束者ですが……と三つ指つかなければなるまい。
知らんがな、何のこっちゃと、思われる方が大多数だと思うので、僭越ながらここに、その書評を再録させて頂く。
伊賀大介は『謝るなら、いつでもおいで』を読んで、幾つもの思いが頭の中をグルグルと浮遊した。
俺は、ずーっと読書が好きだった。
ガキの頃から、読むのは決まってフィクションで、唯一人の作家が、ペンと原稿用紙だけで様々な色彩の想像をブチ撒ける様に、心を奪われた。
が、最近はどうだろう?
根っからの活字狂いには違いねぇが、齢30を過ぎた辺りから、いつの間にかズシッと心のずっと奥の方(©the blue hearts)にくるモノは、大抵ノンフィクションになっていた。
ノンフィクションと一口にいっても、文字通り多種多様だが「現実に生きた人間」が描いてある本は、自分の心の本棚の中では全て一緒に並べられている。
例えば、高野秀行『恋するソマリア』も、団鬼六『真剣師小池重明』も、森達也『職業欄はエスパー』も、井田真木子『プロレス少女伝説』も、田崎健太『偶然完全勝新太郎伝』も、大崎善生『聖の青春』も、アル北郷『たけし金言集』も、大竹伸朗『既にそこにあるもの』も、本田靖春『誘拐』も、水道橋博士『藝人春秋』も、春日太一『あかんやつら』も、増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』も、書店ではバラバラに置かれているだろうが、俺の中では特級金ピカの〝ノンフィクション〟達だ‼ と、言う事になる。
これらの中には、常識ではニワカに信じられない様な、それぞれの「現実」がタップリと埋め込まれているからだ。
そして先日、新たな超弩級ノンフィクションに出会った。
出会いは昨年夏。書店でジャケット(装丁)を見かけた時から「これは‼」という雰囲気は漂っていた。速攻入手し、机上に積ん読していたが、いつまで経ってもどーにも手が伸びない。
と、いうか勇気が出なかった。
いずれにせよ、この一冊は自分の人生の深い所にゴリっと関わってくるな、っつー予感があったからだ(未見の傑作といわれてる映画を、ホロ酔いの深夜にサラッと観れないアノ感じ。これぞクラシック! な『市民ケーン』とか、イ・チャンドン製作の韓仏合作映画『冬の小鳥』とか)。
まー、何事も出会いのタイミングは大事だ。
ラジオから流れて来た的な、偶然と必然がホンの一瞬だけ擦れ違う、他人にしてみれば取るに足らない瞬間にサラっと人生がズレて行く。
とある夜、フッと手に取り、気付けば読了。
タイトルの意図が腑に落ちた途端、なんとも形容し難い心持ちになった。
ある種予想通りの展開。勿論、読み物としては抜群に「面白い」のだが、ちょっと罪な程「面白過ぎる」のだ。
そもそも、現実で何が起こったから、この本が書かれたのか? とか、最後の一行まで気力を振り絞って書き上げた、著者の川名壮志氏が、果たしてこの様な感想を持った人間をどう思うのだろうか? などと、ずっとグルグル浮遊していた。
そして明け方、一冊の本が脳裏に浮かび、久しぶりに手に取った。
これまた超弩級のノンフィクションである『殺人犯はそこにいる』を一昨年上梓した、ジャーナリストの清水潔氏による、ノンフィクションの金字塔『桶川ストーカー殺人事件 遺言』の文庫版だ。
さっきの、何とも言い難い読後感は、この「文庫版あとがき」のラスト一行を読んだ時の刺さり具合に、かなり近かった。
「現実」は、いつだって誰にだってハードモードだ。スパッと明快にお望みのエンディングを迎える、なんて都合のイイ話にはそうそうお目にかからない。
でも、だからこそ「現実」の中でダサくても生き抜いて、「現実」を描いた本たちを読み続けたい。
柄にもなく、そんな事を色々と考えさせられた、貴重な読書体験でありました。
さぁ、今日も出掛けるか‼
(「ケトル」二〇一五年一月号)
と、こんな感じである。
今振り返っても、我ながら見事な迄に内容に触れちゃいないなー、と思うが、そりゃそうだ。当時この書評を書いた時も、今この瞬間、この解説”の・ようなもの”を書いている時点でも、只の素人が、起こった事件の背景や詳細について、生半可な気持ちでオイソレと触れる訳にいかないと思うし、正直、核心に近付く事も難しい。
だが、今回解説のオファーを頂き、新たな心持ちで再読したら、また新たな発見があった。それは、本書はもう二度と起こっては、起こしてはならない、痛ましすぎる少年犯罪(と、その周辺に澱のように漂う、普段ノホホンと日常生活を送っているだけでは確実に知り得ない、少年法にまつわる「不可思議さ」等)についての、傑作ルポルタージュであると同時に、およそ人の生死に関わるような事件など起こるべくもない、長閑な田舎に駐在していた、半人前(失礼‼)の新聞記者の、受け止めきれない/しかし必ず自らの手で乗り越えなければならない試練に、覚悟を決めて立ち向かい、上司や仕事仲間に励まされ、ハッパをかけられ、時には詰られ、自己すら喪失しかねない状況の中、どうにか一人前の男(新聞記者)になっていく様を、恥も外聞もかなぐり捨てて全てを書き記した、という、ある種の成長譚としても読む事が可能な本である、という事だ。
とはいえ、その「成長」というキーワードは、若き新聞記者だけに掛かる言葉ではないかもしれない。
娘に限らず、子供を持つ親なら、誰しもが涙を禁じ得ないであろう、あの手記を書いた(そして、それによって娘の尊厳を守ろうとした)、お父さん。
その喪失感をずっと心に抱えていた、お兄ちゃん。
読んで貰えぬかもしれない、悔恨の手紙を送り続ける、加害者の父親。
そして、取り返しのつかない過ちを起こしてしまった、加害者の女の子。
失った時間は永遠に戻らない、という当たり前の事実の中で、皆それぞれ葛藤し、逡巡しながら、日常を生きて行く。
人は起こってしまった事をどう受け止めるのか。
人は起こしてしまった事にどう責任をとるのか。
という、模範解答の無い問いかけは、これを読む僕らも含め「人は、生きる限り成長し続ける事ができるのか?」という話にも読めてくる。(無論、ここでは加害少女の「成長」については、僕らは祈るような気持ちで、希望的観測をするしかないのだが)
単行本化された時の題字で、お兄ちゃんが手書きで書いた「謝るなら、いつでもおいで」の文字。
その真意は、本書を読んでいただくとして、僕はこの書き文字に、単純な赦しでもなく、ドライな突き放しでもない、当事者のマジモンの本音を見た気がした。
この言い切りに、彼自身の「成長」を感じたのだ。
そしてその姿に、川名氏自身が感銘を受け、救われたからこそ、このような気合いの入った一冊が産まれたのだろう。
今回の文庫化により、手に取りやすくなったこれからも、永久に語り継いでいきたい一冊である。
(平成30年4月、スタイリスト)