育児には神話がある。また、周囲の友人や口コミサイトからの情報に溺れ、真偽を判断する余裕もない。情報に溺れることなく、なるべく子どもと過ごす時間を増やしたいのだが、子どものためにやるべきことは尽きない。ギリギリまで手抜きしてズボラに育児がしたいが、それで、ちゃんと育児やっているんだろうか、できていると思えるのだろうか、悩む。
そんなふうに自分もなるんだろうなと、悲観的なシナリオを子どもの誕生前に考えていた。そんなときに原書『Thirty Million Words』を発見した。私の育児はこの本に書かれた科学と実践によって、楽しむことができ、シナリオ通りに育児は大変だが、のらりくらりと乗り越えることができている。前置きが長くなったが、本書について、紹介したい。
魅力はたった一つである。多忙な育児の中でも、0円で、すぐに、誰でも行動に移せることだ。
背景にある研究は、トッド・リズリーとベティ・ハートによる「The Early Catastrophe: The 30 Million Word Gap by Age 3」である。
3つの異なる社会経済レベルに属する家族とその子どもを生後9ヶ月から3歳まで追跡観察した。毎月1度、1回あたり1時間、観察者が録音し、観察ノートをつけた。その膨大な量を分析することに3年間、2万時間を要した。この研究が行われたのは、1970年代だった。そして、研究結果はごく単純であった。
親がたくさん話した家庭の子どもとそうでない家庭の子どもに比べ、学歴の高さや経済的な地位とは無関係によくできる。
いっぽう、たったの31時間の録音サンプルから、子どもの語彙全体を決めた点は問題であると指摘されている。研究者も「この研究に含まれていない人々や状況にまで結果を広げて解釈しないよう、我々は警告する」と論文にも記している。マシュマロ・テストに再現性の危機に瀕しているように、研究成果が信じるに足るものか、その判断は現時点では難しい。
いっぽう、科学的な真実は意味のある形で実践に移さなければ、変化は生まれない。そして厳密な科学の上にデザインされたプログラムでなければ、効果が出ない。それを実行したのが、著者ダナ・サスキンドである。
彼女は3000万語の格差研究とはまったく縁のない耳鼻科医だった、とある偶然に気づくまでは。人工内耳手術のプロフェッショナルであり、生来聴覚に難のある数多くの子どもたちに手術を通じて、聴覚を取戻すサポートをしてきた。
手術をする子どもたちは、2,3歳が多く、耳が聞こえていなかったにもかかわらず、手術後にすぐに話し出す子がいた。いっぽうで、手術後はすぐには話出せない子がいた。その差はどこから生じているのか、彼女は論文を読み漁った。そこでヒントになったのがリズリーとハートの論文であった。
Thirty Million Words Innitiative(3000万語イニシアチブ)を立ち上げ、3つのTの普及活動をスタートした。子どもと接し、話すときに、意識すればよいシンプルなルールである。
Tune In(チューン・イン)ー注意とからだを子どもに向けてー
保護者が子どもがしていることに注意を向けること。大人がやらせたい活動のために、注意を向けさせるのではなく、子どもが集中していることに保護者が注意を向けることである。子どもの興味関心は次々と変わるが、それに保護者がついていき、反応を返すことである。なお、研究成果によると、子どもの発達や将来の健康や幸福は、人生最初の5年間における親の反応性と結びついている。後の2つのTはチューン・インをしていなければ意味がないそうだ。
チューン・インは具体的には「観察→解釈→行動」の3つのプロセスである。これは、疲れ果てている状態のときには、なかなか難しいことである。とりわけ、解釈することなく、直感的に行動することが多いが、一呼吸おいて、赤ちゃんが何を伝えようとしているのか理解しようと努力することが大切である。
Talk More(トーク・モア) ー子どもとたくさん話すー
子どもと話す保護者の言葉を増やすことである。保護者が子どもに向かって言う言葉を増やす、ではない。「子どもと」であって、「子どもに」ではないことがポイントだ。具体的には、子どもが今やっていることや保護者がしていることを実況中継する、なるべく「あれ」「これ」「それ」などの代名詞を使わずに具体的な言葉を使うなどである。
Take Turns(テイク・ターンズ) ー子どもと交互に対話するー
脳の発達を考えたときには、「3つのT」のなかでもっとも大事である。そして、焦らずに子どもの反応を待つことがポイントである。話し始める前の子に対しては、ジェスチャーを解釈しながら、コミュニケーションを取る。話し始めたばかり子どもには、単語が出てくるのを待つこと、親は言葉を先取りすることを我慢することである。親が子どもに問いかける質問の引き出しが重要になる。
この3つを様々なシーンで応用する方法も充実している。文字や意味を理解していない幼児に、本を読むことは意味があるのか、意味があるなら、どんな読み方がおすすめなのか、は目からウロコの連続で、読み応えがある。他にも、数や形についてはどうなのか気になる情報が目白押しだ。3つのTを通じてできることとそのエビデンスを逐一で提示している。
また、親子の会話を万歩計のように測る、テクノロジーの利用についても紹介されている。「測れないものは、変えられない」し、保護者の動機づけとしても、可視化されることは3つのTを続ける励ましになり、育児をそれなりにやれているな、というささいな自信にもなる。
そして、本書には教育の研究者やジャーナリストが冷静に書いたポップサイエンス、現場で活躍する教育者が熱量を込めて書く啓蒙書のどちらとも一味違う魅力がある。科学への深い理解と丁寧な説明、そして、育児現場に対する冷静な目、さらに豊富な臨床経験と3000万語イニシアチブの地道な積み重ね、これらの経験を一言一言に丁寧に織り込んでいる。医者としての冷静沈着さと一人一人の子どもと親への愛が絶妙に共存している。
もうひと押しするならば、一人の女医が自分のミッションを発見し、0-3歳の子どもたちの環境を変えようと、人生の旅を駆け抜けていくストーリーとしても優れた作品である。そして、家族のストーリーが書かれたエピローグ、涙なしには読むことはできない。感動を味わうために、最後まで読み切ってほしい一冊だ。
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代表成毛が推薦する一冊
書評はこちら。本書の著者らの研究も『3000万語の格差』の中で引用されている。
次に読みたい本。翻訳希望。