旧約聖書の中に「バベルの塔」という物語がある。人間たちは、天にも届かないような高い塔を作りはじめた。神は、それを人間たちの神への挑戦と受け取り、人間の驕りを戒めるべく言葉をバラバラにしてしまう。言葉が通じなくなった人間たちは、意思疎通がとれずに塔を建設することができなくなり、塔は完成を見ることなく崩れ去ったーーそういう内容である。
この物語から得られる教訓は、様々なケースに当てはめることができる。傲慢に対する戒めであったり、実現不可能な計画を批判するためであったり…。しかし「バベルの塔」における分断のアナロジーを現代の建築業界の中に見出し、新たな戦いを始めた男がいる。それが本書の著者・岡 啓輔氏だ。
彼が東京港区の三田で行っている挑戦は、筆舌に尽くしがたいものがある。建築面積25㎡弱、延べ床面積100㎡、「蟻鱒鳶ル(アリマストンビル)」と名付けられたビル。これを全てセルフビルドで作ろうというものだ。2005年11月につくりはじめ、かれこれ10年以上建築中という不思議な建物である。
もちろん安易に施工業者に工事を発注することなど、していない。材料の多くはホームセンタにて購入。コンクリートひとつとっても、工場で作られたものを買ってくるのではなく、現場で自らセメントと水と砂とジャリの分量を計って混ぜて練っている。
目指すべき建築物の概要には、彼の半生の全てが凝縮されていた。コンセプトは「踊るようにつくる即興の建築」。本書は「三田のガウディ」の異名を持つ著者が、前代未聞のビル作りに挑む模様を余すことなく収めた一冊である。
かつて著者は、建築学校に通っていた時分に、建築禁止令を出されたことがあった。それは建築の世界に閉じすぎていた彼の視野を広げるためのアドバイスであったという。途方にくれた彼は、知人の紹介をきっかけに舞踏を習い始める。
1年間ほど踊りに熱中する中で見えてきたのは、踊りにおける本質とは踊り手の心の内に湧き上がってくる感情や咄嗟のアイデアが全てということであった。やがて、これを建築の世界にも応用し、思考と表現を交錯させる即興型の建築を模索し始めていく。
このスタイルの実現を可能にしているのが、彼の異常なほどのコンクリート愛だ。コンクリートの最大の利点は、曲面だろうが凹凸があろうが型枠で表現できるものであれば、自由自在に形を生み出せることである。
つまり「魔法の石」たるコンクリートを現場で練り、その場で打てば、すぐに形を作り出すことが出来るのだ。この手法こそが、作りながら、現場の思いつきで形を変えていく即興型建築の原点になっている。
ちなみに「蟻鱒鳶ル」で使用されているコンクリートセメントの質量に対する水の質量の割合は37%ほどである。(※世に出回っているコンクリートは、工場出荷時で60%程度)。専門家の見立てによれば、「この製法なら200年もつ」とのことだ。
一方で意義深いのは、このスタイルが現在の建築業界に対する痛烈な批評にもなっていることだ。今の建築業界において、建築家が頭で考えることと、職人が手を動かすことの間には大きな隔たりがあることは否定できない。
しかも、頭で考えたことが一方的に現場へ降りていくだけで、現場で手を動かしながら気付いたことを、建築に反映する道筋は絶たれているのだという。だから表現が思考を追い抜くように建築をつくれば、建築や町がもっといきいき輝き出すのではないかーーそれが著者の切なる願いであった。
機能の合理性や必然性といったものに注目が集まりがちな現代社会において、「蟻鱒鳶ル」では、作り手の思いや欲求が十分過ぎるくらいに炸裂している。それをエゴイズムや空回りに感じさせないのは、作り手と使い手が同一人物であることに起因する。「作り手の思いを最大限に解き放つ」「顧客のことを最大限に考える」、一見両立し得ない2つをセルフビルドという形で綺麗に回収している点は、見事というより他はない。
自分の使いたいものを自分で作る。自分が作りたいものを自分が使う。現代にはびこる最も深刻な「作り手」と「使い手」の分断を、現代の「バベルの塔」は鮮やかにつなぎあわせている。そして意外にも、個人に閉じている欲求のサイクルの中にこそ、万人に通じる欲求の普遍性が潜んでいるのだ。