世界レベルで近年の流行語大賞を選ぶとすれば、「フェイクニュース」が有力候補に入るのはまちがいない。アメリカのドナルド・トランプ大統領は自らに不都合なニュースをことごとくフェイクニュースと称しているが、本来は虚偽の情報に基づいて作られたニュースを意味する。2016年のアメリカ大統領選挙の前には、「ローマ法王がトランプ候補への支持を表明した」「民主党のヒラリー ・クリントン候補は、テロ組織IS(自称イスラム国)に武器を売却した」といったフェイクニュースがソーシャルメディアなどを通じて拡散し、大統領選の帰趨に影響を与えたとされる。
「ポピュリズム」も候補入りしそうだ。「国民が苦しむのは移民のせい」「異教徒のせい」「自由貿易のせい」とわかりやすい敵をつくり、支持を獲得していく政治家や政党が、世界各地で台頭している。
なぜ人は薄っぺらな主張に流され、浅はかな判断をするのか。このきわめて今日的な問いに向き合ったのが本書『知ってるつもり──無知の科学』(原題はThe Knowledge Illusion: Why We Never Think Alone)である。著者のスティーブン・スローマンとフィリップ・ファーンバックは、ともに認知科学者だ。工学、心理学、哲学などの学際的研究を通じて、人間の知性の働きを解明しようとするこの学問が登場したのは1950年代。この間に明らかになったのは人間の知性のすばらしさではなく、むしろその限界であったと二人は指摘する。人間は自分が思っているより、ずっと無知である。無知であるという自覚の欠如が、ときとして不合理な判断や行動というかたちで個人や社会に危険な影響をもたらす。私たちは個人として社会として、どうすれば無知を乗り越えていけるのか。それが本書のテーマである。
本書の前半では、人間の知識や知的活動とは本質的にどのようなものかを探究する。まず私たちの知識がどれほど皮相的なのかを、さまざまな認知科学の研究をもとにあぶり出す。代表例が「説明深度の錯覚」に関する実験だ。トイレやファスナーなど日々目にする当たり前のモノについて、被験者に「その仕組みをどれだけ理解しているか」答えさせる。続いてそれが具体的にどのような仕組みで動くのか説明を求めると、たいていの人はほとんど何も語れない。知っていると思っていたが、実はそれほど知らなかった。著者らはこれを「知識の錯覚」と呼び、さまざまな心理現象のなかでこれほど出現率の高いものはない、という。
しかし、だから人間がダメだと言っているわけではない。私たちを取り巻く世界はあまりに複雑で、すべてを理解することなどとてもできない。そこで人間の知性は、新たな状況下での意思決定に最も役立つ情報だけを抽出するように進化してきた。頭の中にはごくわずかな情報だけを保持して、必要に応じて他の場所、たとえば自らの身体、環境、とりわけ他の人々のなかに蓄えられた知識を頼る。 このような、人間にとってコンピュータの外部記憶装置に相当するものを、著者らは「知識のコミュニティ」と呼ぶ。知識のコミュニティによる認知的分業は文明が誕生した当初から存在し、人類の進歩を支えてきた。
これが知識の錯覚の起源である。思考の性質として、入手できる知識はそれが自らの脳の内側にあろうが外側にあろうが、シームレスに活用するようにできている。私たちが知識の錯覚のなかに生きているのは、自らの頭の内と外にある知識のあいだに明確な線引きができないためだ。できないというより、そもそも明確な境界線など存在しないのだ。
知らないことを知っていると思い込むからこそ、私たちは世界の複雑さに圧倒されずに日常生活を送ることができる。そして互いの専門知識を組み合わせることで、人間は原子爆弾やロケットのような複雑なものを作りあげてきた。人工知能(AI)の進歩によって人間を超える超絶知能(スーパーインテリジェンス)が誕生すると言われるが、著者らは真の超絶知能とは知識のコミュニティだと主張する。クラウドソーシングや協業プラットフォームなどテクノロジーの進化によって、今後その潜在力が発揮されるようになるだろう、と。
しかし知識のコミュニティは両刃の剣だ。本書の後半ではその危険性と、それを克服する道筋を考察している。トイレやファスナーの仕組みを理解していなくても、まず実害はない。しかし社会的、政治的問題となると話は違う。著者らは「社会の重要な課題の多くは、知識の錯覚から生じている」 と指摘し、それを示す衝撃的な例をいくつか挙げている。
たとえば2010年にアメリカで成立した「医療費負担適正化法(通称「オバマケア」)」をめぐっては世論を二分する激しい論争が勃発した。最高裁判所が同法の主要な条項を支持する判断を下した 直後に行われた国民へのアンケートでは、36%が賛成、40%が反対、24%が意見を表明しなか った。しかし同じアンケートで最高裁の判決がどのようなものであったかを尋ねたところ、正解したのは全回答者の55%にすぎなかった。つまり最高裁判決の内容を正しく理解しないままに、賛否を表明した人が相当数いたということだ。同じような事例は枚挙にいとまがなく、アメリカ国民のうち、2014年のウクライナに対する軍事介入を最も強く支持したのは、世界地図上でウクライナの位置すら示せない人々であったという。
なぜ理解もしていない事柄に、明確な賛否を示すことができるのか。それは私たちが自分がどれだけ知っているかを把握しておらず、知識のよりどころとして知識のコミュニティに強く依存しているからだ。「コミュニティのメンバーはそれぞれあまり知識はないのに特定の立場をとり、互いにわかっているという感覚を助長する。(中略)こうして蜃気楼のような意見ができあがる。メンバーは互いに心理的に支え合うが、コミュニティ自体を支えるものは何もない」と著者らは指摘する。これは 社会心理学者のアービング・ジャニスが「グループシンク(集団浅慮)」と呼んだ現象で、同じような考えを持つ人々が議論をすると、グループの意見は先鋭化することが示されている。
知識の錯覚の特効薬はないが、一つの手段として著者らが期待を寄せるのは行動経済学である。2017年にシカゴ大学のリチャード・セイラー教授がノーベル経済学賞を受賞したことで改めて注目が集まっているが、その特徴は伝統的な経済学とは異なり、「人間は必ずしも合理的判断をするわけではない」という前提に基づいていることだ。だから自然と合理的選択に誘導するように「ナッジ (そっと押す)」すべきであり、それには環境を選択的にデザインする必要があるという考え方をする。たとえば退職後に向けた貯蓄制度への加入者を増やすには、希望者が「オプトイン(制度に加入する意思表示)」するのではなく、希望しない人が「オプトアウト(加入しない意思表示)」する仕組 みにするのが有効だ。
個人が自らの無知への自覚を高めると同時に、社会として知識のコミュニティの弊害を抑える仕組 みを作ることが必要なのだろう。
インターネットやソーシャルメディアの普及によって、同じ価値観の仲間で固まり、異なる意見を排除しようとする傾向は一段と強まるリスクがある。本書は2017年3月にアメリカで刊行されると、時宜を得た内容から《ニューヨーク・タイムズ》、《エコノミスト》、《ニューヨーカー》など有力新聞・雑誌の書評欄で相次いで取り上げられた。世界的ベストセラー『サピエンス全史』の著者ユヴァル・ノア・ハラリは、《ニューヨーク・タイムズ》の書評で「17~20世紀にかけて西洋思想の土台となってきた『合理的な個人』の棺桶の蓋に、また一つ新たな釘が打ち込まれた。スローマンとファーンバックは思考の合理性だけでなく、それが個人の営みであることまで否定してみせた」と 本書を高く評価した。
私たちは自分が思っているよりずっと無知である。合理的な個人という今日の民主政治や自由経済の土台となってきた概念自体が誤りであった。そんな身も蓋もない事実を突きつける本書ではあるが、読後感は不思議と爽快である。それは本書終盤の、本当の「賢さ」とは何かという議論とかかわっている。これまでは個人の知能指数(IQ)によって賢さを測ろうとしてきた。しかし人間の知的営みが集団的なものなのであれば、「集団にどれだけ貢献できるか」を賢さの基準とすべきではないか、と著者らは言う。記憶容量の大きさや中央処理装置(CPU)の速度といった情報処理能力と並んで、他者の立場や感情的反応を理解する能力、効果的に役割を分担する能力、周囲の意見に耳を傾ける能力なども知能の重要な構成要素とみなすべきである、と。
脳内CPUの性能には、生まれつき個人差があるのかもしれない。ただ私たちの知識のコミュニティが向き合うべき問題の複雑さに比べたら、個人のCPUの性能の違いなど誤差の範囲である。それ以上に重要なのは、身の回りの環境、とりわけ周囲の人々から真摯に学び、知識のコミュニティの恩恵を享受しつつ、そこに貢献しようとする姿勢である。それによって生まれつきのスペックにかかわらず、知性を磨きつづけることができる。なんとも希望の持てる話ではないか。
とはいえ、これも本書を理解したという錯覚に基づく、訳者の見当違いな解釈にすぎないのかもしれない。ぜひ本書をひもとき、著者らの議論に直接触れていただきたい。
2018年2月 土方奈美