私が東京放送のアナウンサーになったのは1967年の春だった。
新人の頃、アナウンサーとして読むべき何冊かの本を教えられた。そのひとつが「徳川夢声さんの話し方の本」だった。
正に今回文庫化されたこの『話術』なのだ。先輩から読めと言われていたのに、50年間手にすることがなかった本が手元にやってきた。襟を正して読み始めることにした。
思い返してみると、ただ遊んでばかりいた少年時代に、徳川夢声氏が朗読する「宮本武蔵」に夢中になっていた。
調べてみると、夢声氏のラジオでの「宮本武蔵」の朗読は、戦前から戦中にかけてNHKで放送され一世を風靡していた。戦後、民放でも夢声氏は再び武蔵を朗読して、又しても多くのファンを魅了した。
私も、民放で聴いたひとりだった。
武蔵(タケゾウ)と、幼馴染のお通との、いつまでもはっきりしない関係にヤキモキしながらも、次々にやってくる木刀や真剣での立ち合いに手に汗握ったものだった。
夢声氏の「その時、武蔵は……」この口調と声は未だに頭の中にくっきりと残っている。それから随分時が流れ、20世紀の終わり頃、クルマを運転して、岡山の美作近くにさしかかった時、「武蔵の故郷か……」と胸が高鳴ったほどだ。あの朗読は忘れられない。
さて、50年の怠慢を経て、初めて読んだこの『話術』に取りかかろう。
夢声氏がこれを書いたのは1949年と承知していたのだが、出版元からの連絡で、どうやら初刊はそれより2年前、1947年だと判明した。その後、細かい言い回しなど、夢声氏が手をいれたことは分かっているが、内容は、ほぼ初刊のままと考えてよさそうだ。
私の生まれは1944年で、まあ、物心がついたのが4~5歳といったところだ。1950年頃ということになる。
その頃の私の記憶は、子供心に「飢え死にするのではないか」という恐怖だった。戦後4~5年経っても、あの戦争の傷跡は深いままだったのだ。
ところが、戦後2年目に夢声さんはこの本を書いたのだ。そのことに驚愕する。
思わず、夢声氏が夢声さんになってしまった。
冷静な眼力、世情に動じない精神力、溢れる知性と教養、かなりの高みから、世の中を、そして自分自身を眺めている。
夢声さんは、29歳の時に関東大震災を、40代から50代にかけて太平洋戦争を体験している。
焼野原になった東京や、大混乱の日本を見つめている皮肉まじりの眼差しも、あの宮本武蔵の朗読の声を思い浮かべると、何故か納得出来るのだ。
この本には書かれていないが、夢声さんが、戦時中に、慰問先のシンガポールで、あのアメリカ映画「風と共に去りぬ」を観ていることを知っている。この映画は、戦後随分たってから日本に入ってきたが、その完成は、あの真珠湾攻撃の2年前だった。
シンガポールで「風と共に去りぬ」を鑑賞した夢声さんは、太平洋戦争の終焉を予感していたかも知れない。
だとすれば、戦後2年目の夢声さんのこの落ち着きぶりは、少し納得出来るのだ。
さて、本題に戻る。
この本のタイトルは「話術」。この本が書かれる随分前から、話術というのは夢声さんの代名詞のようなものだった。だから、このタイトル「話術」は、「私―夢声―」としても何の違和感もない。
つまり、夢声さんは話術について話しているのだが、自分自身を語ってもいるのだ。
夢声さんは、博覧強記の知識人で、理性の人であった。
同時に、彼は高座に上がる漫談の芸人でもあった。その夢声さんが、世の中の「話術」を分析している。
政治家の話術、講談師のそれ、浪曲師、落語家、漫才師……、日本国内にとどまらず、それは古今東西に及んでいる。
彼の本業である漫談については、夢声さんはとても悩んでいる。
講談や落語などと違って、漫談には古典もなければ、決まったストーリーもない。つまり、漫談は、練習も稽古も出来ないというのだ。おまけに、日本のあちこちに「巧いハナシ手が存在する」、そう夢声さんは認めている。
それでは、話術におけるプロと素人の違いはどこにあるのか。夢声さんは、「それによって生計を立てるか否か」という一刀両断の結論を示している。
私がアナウンサーになった頃、「ほとんどの日本人が話すことが出来る日本語を話すことで、給料が貰えるというのはどういうことなのだ」と考え込んだことがあった。夢声さんのこの結論で、少しばかりだが、納得出来たような気がした。
さて、もう一度本題に戻る。
夢声さんは、話し方、話術について、細かく分析し、解説してくれている。
しかし、何回か読み返すと、結局は、話し方ではなく「考え方」について夢声さんが説明している事に気が付くのだ。
つまり、どう話すかは、どう考えるかにかかっている、という極当たり前の結論だ。
この本を読むと、話し方が上達する。それは恐らく間違いない。間違いなく、少しは上達するはずだ。
しかし、それよりも遥かに上達するには、人の話を聴く力が大切だと説いている。人の話を聴く心と言ってもいい。実は、夢声さんは希代のインタビュアーでもあったのだ。
かなり乱暴だが、私なりのこの本の結論をまとめてみる。
話術を磨く三つの方法。
一、人間性を向上させる。
二、考える力を磨く。
三、人の話をよく聴く。
余談になるが、この本を読んで新発見がふたつあった。
一つは、敬愛する古今亭志ん生さんが、師匠筋ではない橘家圓喬を、自分の師匠だと常々口にしていた。これが私には不可解だった。
夢声さんと六代目菊五郎が、揃って圓喬を褒めちぎっている。怖い程の上手さだったようだ。志ん生さんの憧れの師匠だったのだ。
二つ目の発見は、「宮本武蔵」のラジオでの朗読だ。僕は、吉川英治さんの原作を忠実に読んでいるものと思い込んでいた。
夢声さんは、原作を台本ではなく、種本として扱っていたと言っている。
どういうことかというと、夢声さんは、「目で見る文章」を「耳で聴く文章」に変えていたのだ。
武蔵をはじめ、登場人物のセリフも、音で聴いて分かりやすいように変える、更に、情況を説明する地の文も、冗長だと思ったら、青鉛筆で大幅に削っていたというのだ。
確かに、目で活字を追うのと、ラジオで聴くのは大いに違うと思う。
しかし、あの吉川英治氏の原作に手を入れるとは……つまり、ラジオは私がプロだという自信がそうさせたのだろう。
この1冊は、書かれた時代の色や風、そして日本語への愛に満ちている。
この名著の文庫化に大いに感謝する。
(平成30年1月)