机は勉強する大学生や高校生に占領され、読みたい本はだいたい貸出中、音を立てれば「シーッ!」と怖い目で睨むメガネをかけた図書館員、映画で登場する図書館の典型である。
インターネットで検索すれば欲しい情報がすぐに手に入ってしまう時代に、日本を含む世界各国の図書館は生き残りをかけて、古いイメージから脱却しようと挑戦している。本の虫だけを相手にしたサービスでなく、幅広い層に利用され、図書館ならではの専門性を活かした問題解決を行い、知識社会を生きる市民のサポーターとして、なくてはならない存在になろうとしている。
存在意義と役割をアップデートしようとする試行錯誤の過程を明らかにし、スペース、サービス、教育、社会的意義の切り口から図書館の高いポテンシャルを解放する4冊を紹介する。
利用者には、図書館の裏側を多岐にわたって知ることができるおもしろさがあり、関係者にとっては、新たに求められる役割と武器のカタログになる。
イタリアでは、図書館は格式が高く、学生や知識人層のためのお堅い場所として見られがちであった。著者は司書歴30年を超え、数々の図書館のリノベーションに携わってきた。その仕事を通じて、一貫して目指してきた図書館像は街のなかの「知の広場」である。
まず、図書館と街の関係を振り返るとともに、2030年に起こりうる未来のシナリオを想定する。そして、図書館の生き残り戦略として、必要とされている新たな役割を仮定した。市民の共通の経験をする場として、さまざまな人や知識と出会う場であり、形作るために市民を大胆に巻込み、協働して、図書館から町をつくり、町から図書館を作ることであった。
図書館のハードへのこだわりも強い。まず、「何が一つの場を居心地よくさせるのか」というところから考えはじめ、荷物の置き場所、椅子や机の選び方、案内標識の是非、受付カウンターの配置やサイズ、開館時間といった事細かなことを利用者中心に細やかに検討していく。人はどのように動くかを観察し、先駆者としてのスーパーマーケットやデパートを事例に、よいものを貪欲に取り入れていく。すべてはユーザーの居心地のために。
ソフトの面でも近所の図書館にあれば楽しいなぁ、と思うものばかりである。そのなかでも、図書館でより充実した手助けを受けられるようにした図書館員の予約サービスはすぐにでも利用したい。知のパーソナル・トレーナー、ほんとうに魅力的である。
サブジェクト・ライブラリアンとは、「特定の強化・学問領域の知識を持って、その教科・学問領域を担当しているライブラリアン」である。著者が所属するワシントン大学には、サブジェクト・ライブラリアンが約70名雇用され、160の研究領域に対応している。仕事はコレクションの構築、学生や教授、地域住民からの本やリサーチに関する質問に答えること、アウトリーチ、展示、ワークショップの開催、最新情報キャッチアップのための学会参加など多岐にわたる。そのなかでも、教授の研究をサポートする仕事は、正直その踏み込み具合に驚かされた。
まず教授陣のこれまでに書いた論文や本を読み、彼らの研究を研究する必要があります。研究テーマが少しわかってくると、そのテーマの研究がどこへ向かうのか想像し、今後必要になるであろう資料の収集に取り掛かります
そのサービスの手厚さは学生も驚かせる。著者の同僚の北欧研究のライブラリアンは欧州と米国のサービスと開放感の差に言及する。
北欧の図書館とアメリカの学術図書館の違いは、サービスなんだよね。ヨーロッパの学生がアメリカの図書館に来ると、こんなにサービスしてもらえるのかと驚くんだけど、これは日本の学生もそうみたいだね
サブジェクト・ライブラリアン、その仕事と提供するサービスは、語弊を恐れずに言えば、学生と教授の知のパーソナル・トレーナーである。
ヨーロッパ、アメリカの次は、日本の困った図書館事情である。
書物自体は一貫して重要視されていた日本で、社会機関としての図書館の評価が低かったのはなぜか、を解き明かしていく。図書館論にとどまらず、書物論、情報論、文化論、そして教育論にまで広がっていくが、一貫したキーワードは情報リテラシー、「情報環境から自分が必要とする情報を得るための能力全般」のことである。今から40年以上前に来たるべきデジタル情報時代を予見し、図書館と情報産業を結びつける概念として提案された。
日本の比較対象としてあげられるアメリカでは、「事実」から「知恵」に至る過程こそが情報リテラシーとして考えられている。「事実」は、それに関する文脈が加わることで、情報になる。そして、情報は推論が加わることで、理解となる。理解は客観的ないし主観的確信が加わることで、知識になる。最後に、知識は、知識同士が統合されることで「知恵」となる。
翻って、日本での情報リテラシー教育は知の形成過程を学ぶのではなく、コンピュータに関する知識や技術的な指導(コンピュータリテラシー)を行うことが主流であった。卒業論文を書く段階になって冷や汗を書きながら、その場しのぎで情報を取りまとめることが精一杯で、体系的な情報リテラシーを身につけないまま卒業していく。
散々な状況である日本の情報リテラシー事情を改善するために、図書館の登場である。しかし、それ以前に整理するべき厄介な歴史や、根深い問題が山積であり、著者の日本の現状への見解は手厳しい。
明治以来の日本人は自らの知の形成において、教育職以外の人の介入を嫌ったということができる。図書館は、一人一人の学び手の自由な学びを保証する機関であるが、そうしたものの必要性を認めないままに近代化を進めてきたのである。また、学校教育に寄る日本型の知の枠組みにはめることで、情報リテラシーをもち自律的な市民の育成を阻んできたために、図書館のような情報リテラシーを促す作用をもつ機関の必要性は自明のものとはされなかった。
悲観だけではなく、希望もある。現在進行系の教育改革が情報リテラシーを活かした学びを推進しており、情報リテラシーを浸透させる絶好の機会なのである。そして、図書館がその一翼を担う存在として、期待されている。
ここまで紹介した三冊に共通していることは、ファクトと数字を積み上げながら、歴史に遡って思考を深めるタテの思考と、他国の政策や統計、種類別の図書館と比較するヨコ思考を、忠実に実践していることにある。三冊のうち、いずれかを読むことが、図書館発の情報リテラシーを身につける教材にもってこいである。
本書にはこれからの図書館のあり方を考えるうえで、けっして忘れてはいけないこと書いてある。シリア内戦で、反体制運動が盛んだったダラヤ地区で生まれた感動と悲しみの図書館ストーリーである。
ダラヤでは、本が、そして図書館が、人間が極限状態でも、正常な精神を保って、生きていくために切実に必要とされた。空爆された民家の瓦礫の下から、本を収集し、地下のスペースに陳列し、秘密図書館をオープンした。出版物には検閲はない。読みたいリクエストが多い本が図書館になければ、小さな衛星アンテナで接続されたインターネットから、ダウンロードした。
集めた総数は、一万五千冊以上、その一冊一冊の最初のページに所有者の名前を書き込んだ。戦争が終わったら、それぞれの持ち主が書籍を取り戻せるようにするために。
意外なことに、ほとんどの利用者は戦争の前には読書が好きではなかった。利用者が図書館に通い、本を読むようになったきっかけは、人ぞれぞれで、空白を埋めるため、セラピーとしての効果を読書に期待するもの、反逆の行為、自由を確認する行為として本を読むものもいた。戦場で読むための書籍を定期的に借りきた戦士もいた。そして、共通していたのは、異常な環境下で、自分を見失わないため、何より人間であり続けるためであった。
自由を望み、読書を通じてそれが実現できると信じた。そして、図書館が空爆の被害にあい、住民が町からの退去を余儀なくされた後にも、本と図書館への情熱は難民キャンプで引き継がれている。
—