戦後70余年。神奈川県大磯のエリザベス・サンダース・ホームで育った混血の孤児たちも、思えば、すでに老齢にさしかかっているだろう。
ホームの創設者、沢田美喜(1901~80年)は三菱財閥の創始者、岩崎彌太郎の孫である。男ならば当然、事業を発展させたはずだが、美喜は20歳で外交官、澤田廉三と結婚し、南米や中国、欧米各国で華やかな社交を繰り広げた。ところが、4人の子女を育て終えた40代半ばで敗戦を迎え、財閥解体で私財の大半を失うと、ほどなく戦争の落とし子らの救済に乗り出す。78歳で亡くなるまで、彼女が母親代わりとなって養子縁組をととのえたり、社会へ送り出した子供は二千人にも上る。
それはまさしく、占領期の日本の復興、安定を支えた偉業に違いない。だが、大財閥の娘がなぜ、黒い肌、碧い瞳の、路傍に捨てられることすらあった混血の赤ん坊を、資金不足に悩まされながらも養育しようと決めたのか。どこか腑に落ちない「なぜ?」という感触を残したまま、沢田美喜の一生は、昭和の彼方へ遠ざかっていくままのようだった。
美喜自身による著作や生前のインタビューを読み返してみても、情緒的な記述がまさり、理由は混沌としている。本人にさえ、「なぜ?」は不明だったのかも知れない。起伏の激しい美喜の性格を告発しつつ、孤児たちのその後を追跡したノンフィクション作品を何冊か読んでみたものの、興味本位で書かれた本も多く、納得できるものはなかった。
ところが、青木冨貴子氏が通算10年をかけた本書は違う。冷静に混沌した実像がようやく浮かび上がった。難事業に後半生を捧げた理由──それは〈たった一人で始めた戦後処理であった。言ってみれば、沢田美喜は巨大な岩崎家の後始末をして、岩崎の家を生き返らせた〉。すなわち本書は、幕末から繰り返された戦争と国策に乗って巨万の富を得た岩崎彌太郎と三菱財閥、およそ80年の発展から解体に至る史実を背景に、美喜を近代史の中に置き直し、エリザベス・サンダース・ホームが誕生した真の理由を連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)との密接な関わりの中に解き明かそうとした試みなのである。そして、この大事業を完遂させた原動力は、美喜が岩崎宗家に生まれ、〈これ以上ないほどの祝福と愛情で迎えられた女の子であったからこそ、その出生を喜ばれず、祝福されず、愛されたことのない子供たちを抱擁し、母になることができたのではなかろうか〉。こうした著者の推量を裏付ける、伝記的事実も厚みに不足はない。
読者を説得する技量は、本書の取材過程で生まれた『占領史追跡』(新潮文庫、単行本タイトルは『昭和天皇とワシントンを結んだ男』)──「ニューズウィーク東京支局長パケナム記者の諜報日記」の副題を持つ前著を通じて、すでに実証済みだろう。7年に及んだ日本の占領期間、GHQ幹部と吉田茂、鳩山一郎をはじめとする日本政府首脳らとの間にはインテリジェンスの攻防が絶え間なく続いた。ニューヨーク在住の著者は、米国立公文書館の奥深くまで分け入り、両国に生き残る関係者、その子息らの証言を根気よく収集した。本書でも引き続き、戦後史に〈ある種の影響力を及ぼした〉沢田美喜、いや沢田夫妻の動向を、歴史の闇の中から果敢に掴み出している。
夫、澤田廉三にとって、岩崎家の資産が出世への何よりの後押しとなったように、美喜にとって外交官の夫はかけがえのない後ろ盾であり、情報源だった。接収された夫妻の麹町の邸宅「サワダ・ハウス」は、日比谷のGHQ本部では表立って行えないG2(参謀第二部)関連の秘密会談の場所となり、本郷の岩崎家茅町本邸は、占領中、数々の陰謀を練ったとされるキャノン機関の根城となった。澤田夫妻は、これらの場所に頻繁に出入りし、占領軍のキーマン、ウィロビー少将やキャノン中佐らとの複雑なやりとりに関与した形跡がある。廉三はその後、外務省の先輩、吉田茂の命を受け、望み通り、初代国連特命全権大使に任じられている。廉三という存在もまた「なぜ?」の答えの一つであったのだ。
土佐藩の地下浪人という身分から財を成した彌太郎と、「女彌太郎」と一族内で呼ばれた美喜を結ぶ”いごっそう”気質も、本書の柱となる。岩崎家三代の逸話は、ともかくスケールが大きい。彌太郎の妻、喜勢の部屋で毎夜、岩崎家に伝わる訓話を繰り返し聞かされ、友禅の着物はあまり似合わなくても、健康と体力には恵まれていたという美喜。家庭教師に選ばれた津田梅子から懇切丁寧に習った英語は、のちにアメリカの大作家パール・バックらとの交友をもたらしてくれる。50人もの使用人にかしずかれながらも、ある時、お付きの看護婦の祈りの言葉「汝の敵を愛せよ……」を耳にしてキリストの教えに目覚めた美喜の感受性は、パリ滞在中に褐色の歌姫、ジョセフィン・ベーカーとの交流を引き寄せる。貧民街出身のベーカーが貧しい人々を抱きしめ、贈り物を渡す姿は、美喜を存在の根底から揺さぶったに違いない……。
そして第二次大戦後。岩崎家の茅町本邸からGHQが持ち去った有価証券は、トラック3台分もあったという。それを見送る時も平静さを失わなかった父、久彌を激怒させたのが、70年間、ひとりの不義者も出さなかったという本邸を、女郎屋同様に貶めた進駐軍の不品行だった。潔癖なクリスチャンの美喜はこの時期、GHQに対する正面切っての抗議に繰り返し臨んでいる。それは幕末以来、戦争を機に太り栄えた財閥の娘としての〈覇気と勇気〉の成せる業であった。と同時に、戦争で蓄えた巨万の富によって暮らした戦前の日々に対する、贖罪の気持ちからでもあったと著者はみる。さらにこうも推察する。沢田美喜の深層においては、占領軍にとって最も痛烈な報復措置として、エリザベス・サンダース・ホームが構想されたのではなかったか……。長男、澤田信一から著者が引き出した推察は、十分、納得のいく心理だろう。
「実子が孤児になり、孤児が実子になった」という信一の言葉にも胸を衝かれた。「戦った女」の表の顔が、孤児救済の寄付を募るために五千通もの手紙を送った聖女だとすれば、著者は一方の、ほの暗い側面にも光を当てている。
ESSや東洋文庫の起源、下山事件の背後にあった新事実など、戦後の空気を伝える出来事も、本書には豊富に配されている。一行一行が密で濃い。団塊世代の著者は、〈自分の生まれた時代の実像を知りたい〉と本書に挑んだという。強い意志が、沢田美喜の生きた時代と響き合い、私たちが決して忘れてはならない日本人女性の生涯をみごとに生き返らせた。
(平成29年12月、読売新聞社編集委員・文芸評論家)