東京オリンピック・パラリンピックの大会運営費用や会場整備費用は、当初見込んでいた3013億を遥かに超えて総予算の計上は現時点ですでに2兆円を超えている。東京都民としては「おいおい、話が違うじゃねえか」と呆れるほかないところだが、いったい”オリンピックを運営する”、その裏側ではどのような力学が働いていて、”なぜこうなってしまうのか”。
本書『オリンピック秘史: 120年の覇権と利権』は、そもそも現代のオリンピックがスタートした瞬間からはじまって、オリンピックの歴史を追うことで、その本当の経済効果、開催することによるリスク、裏側でどのような陰謀や金が渦巻いているのか──といった政治と利権の構造を明らかにする一冊である。たとえば、特に21世紀に入ってからはオリンピックの運営費は当初の見積もりから数倍〜数十倍に膨れ上がるのが常態化しているが、その原因のひとつには、正直に費用を提示してしまうと、国民や市民からの反発が大きいからだという(当たり前だ)。
国際オリンピック委員会(IOC)は、オリンピックを政治的に扱うべきではないとしばしば述べるが、『じつは、オリンピックは何から何まで政治的なのだ。』という冒頭の宣言を筆頭に、これを読むことで腑に落ちなかった点の幾つもに「そうだったのか」と理解が訪れることになる。『つぎのオリンピック開催地に住んでいる友人がいれば、この本を一五冊ずつ送ってあげてほしい。ここに書かれたことばは武器である。オリンピックに翻弄されたくなければ、この武器を装備しなければならない』とは、スポーツライター、デイブ・ザイリンによるはしがきの言葉だ。
軽く歴史の話
現代のような形でオリンピックが復活したのは意外と最近の話で、19世紀末のことである。第一回はアテネで開催された。その当時はまだまだ差別の色が濃く、オリンピック運営の中心となったクーベルタン男爵は男子のみの大会でなければならないと考えていたし、人種差別もしばらく続くことになる。おもしろいのが、復活版オリンピックの第一回は準備期間が2年しかなく、そのうえ開催国の金が当てにできなかったので、資金不足をめぐるパニックを抑えるために、第一回時点ですでに、開催にかかわる費用をあえて少なく発表していたという。
第一回から続く悪習が現在にまで続いてしまっているわけだが、その後も莫大な開催費用を負担したくない市民による抗議と、実態としてそれでは支払い切れない現実。女性差別、人種差別(ヒトラーとゲッベルスはオリンピックを利用することでドイツ人(アーリア人)の優秀さを広く知らしめようとした)など多数の問題を抱えながらもオリンピックは定期的に開催されていき、著者の宣言どおりに一貫してそこが政治的な場として機能していたことが明かされてゆく。
冷戦期は超大国の威信をかけた代理戦争の様相を呈し、台湾と中国の「2つの中国」問題ではお互いの国が相手をオリンピックから追放するようIOCに宣言。アパルトヘイトに対する抗議としてのボイコットによって南アフリカは二大会連続でオリンピックに招待されないことが決定され、競技のテレビ放映がはじまるとその放映権料が莫大な収入となって、IOCが企業体へと変化していき──とそこに巨大な金と権力が集中するのならば、政治から切り離すことはできないという単純な事実が歴史を読み込むことでよくわかってくるのだ。
オリンピックによる不利益
そうした大きな力の集中するオリンピックを開催することは、果たして本当に利益になるのだろうか。利益になる面もあるが、それ以上にリスクも大きい。本書ではオリンピックを「祝賀資本主義」と称してオリンピックの特徴を説明している。非日常的なイベントの開催によって通常の政治のルールは一時停止され、公の機関、開催地の納税者がリスクを負い、楽しい浮かれ騒ぎの裏側で、一部の民間企業が利益をごっそりともっていってしまう。
そのうえ、『総じてスポーツ経済学者が結論するところでは、オリンピックの開催地になった都市に、経済効果についての調査研究によって保証されている利益がもたらされることはない。』という他、オリンピック開催のために作られた施設の多くが、その後使われずに取り壊され、中国では市民がはした金で立ち退きを迫られ、ブラジルでは格差が悪化し──とさまざまな不利益も生じてきている。もちろんオリンピックとはある種の祭典であり、何も利益のためだけに行われるものでもないわけだが、それにしても現在の諸々は手際が悪いというほかない。
それでも開催国への立候補が絶えないのは、オリンピックの経済効果について誤った予測が多く出ていることも関係している。予測の多くは依頼を受けて調査する経済コンサルタントによって作成され、誤った経済成長への理想がまかりとおり、それを元にして人々は夢を抱く。すると政治家は、腐敗の温床となりえる見栄えのいい野心的な計画を積極的に推し進めるようなる。そして納得させるためだけの空想の見積もりを出してまで騙し騙し物事を前に進めていくわけだ。
だが、そうした状況も正しく認識されつつある。2024年の夏季オリンピックの招致レースでは選考の途中脱落が相次ぎ、立候補都市はロサンゼルスとパリのみとなって、96年ぶりに24年と28年の開催地を同時決定することになった(24年がパリ、28年がロサンゼルス)。
改善できるのか
こうした状況は改善することができるのだろうか。ここまで大きくなったオリンピックの開催予算を少なくすることは難しいだろうし、テロの脅威が増すばかりの今、警備費用も上がり続ける。だが、それとは別に経済効果についての、結論ありきの調査研究ではなく、まともで客観的な評価、また、招致活動で立案されている建設計画に現実性があるかどうかを各種専門家による検討を加えるなど、IOCの変革によってできることはまだまだあると著者は主張する。
実際、本書で暴き立てられていくオリンピックの実態の中で、残念なのはIOCのあまりの無能っぷりだ。民主的な組織ですらなく、委員の中に特に関係なさそうな王子、王女、大公など貴族階級が多数在籍し、透明性はまったくなく、ほとんど気まぐれともいえる行動がひたすら目につく。『最後に、IOC委員は開催地を決定する投票となると当てにならないことで知られ、テクニカルレポートを無視し、もっとも目を引く約束をした候補都市に投票する。IOCは、投票者の記録を公表するべきである』。多くの側面が残念な組織ではあるが、それはそのまま改善の余地ありという意味でもあり、今後の改善を期待したいところだ。
「なんで最初の見積もりからそんな高くなるんだよ!」など、これから先東京オリンピック開催に向かって無数の理不尽な事態が起こると思われるが、そうした際に”なぜそんなことが起こってしまうのか”という歴史的な経緯を抑えるためにも、必読の一冊だ。