神成大尉は、二一〇人の兵隊を凍死させたのは自分の責任であるから自分は自殺する、舌を噛んで自殺すると。……
ベッドの上で正座して話す老齢の男性――その人は、世界最大級の山岳遭難事故の最後の生存者・小原中三郎元伍長であった。
1902年(明治35年)1月。日露戦争を前に陸軍は寒冷地での行軍を調査・訓練するため、青森の陸軍歩兵第五聯(れん)隊と弘前の第三十一聯隊が豪雪の八甲田を異なるルートで越えることになる。結果的に三十一聯隊は八甲田を越え帰還したが、五聯隊は山中で遭難。210人あまりの将兵のうち、199人もが凍死した。世に言う「八甲田山雪中行軍遭難事故」である。
これをもとに書かれた新田次郎の小説『八甲田山死の彷徨』は、大ベストセラーになった。映画化された「八甲田山」で北大路欣也演じる第五聯隊の神成(役名は神田)大尉が猛吹雪のなか、こう叫ぶシーンをご存知の方も多かろう。
天はわれらを見放した
小原元伍長への聞き取りが行われたのは、1964(昭和39)年。翌年に控えた陸上自衛隊による慰霊の八甲田演習に向けて、青森駐屯地の第五普通科連隊渡辺一等陸尉が箱根の国立療養所に氏を訪ねたのである。雪中行軍で負った凍傷のため両足首から下と親指以外の両手指を失った小原元伍長も、85歳になっていた。62年間の沈黙を破り語られたその悲惨さは、想像を絶するものだった。
あっちでバタリ、こっちでバタリ、もう足の踏み場もないほど倒れたんです。(中略)今度私か、今度私かと思いますね
胸までの雪を泳ぐみたいにかき分けて歩きました……手がこごえてボタンをはずすことが出来ず大小便はたれ流しで、まず小便にぬれた足の下の方が凍り、それからだんだんシリの方が凍ってくる
聞き取りの翌年、「明治35年と同じ想定で青森平地を出発し、田代平を経て三本木平地へ進出する」とした自衛隊の演習は実施され、以後毎年、自衛隊第五普通科連隊は2月に八甲田での慰霊演習を行うようになる。
本書は上記の小原証言や当時の資料などを独自に調査して事故の状況やその背景に迫ったものだが、じつは著者も第五普通科連隊に所属していた元自衛官で、この八甲田演習に参加している。厳冬期の山の過酷さを実体験として知るゆえだろう、行間ににじむのは無謀な計画の実態や軍の隠蔽体質に対する怒りである。
まず、遭難した五聯隊の装備や計画はあまりにも貧弱であった。現場の気温はマイナス20度近かったと推測される。しかし、当時使用されていたわら靴の写真は「これスリッパ?」という形状で、靴下の上にじかに履けば入り込んだ雪が体温で溶けて凍ることは自明だ。
将校は下士官に比べて装備が良かったために生還できた割合も高く、証言をした小原元伍長も、寒さで錯乱し裸で川に飛び込んだ将校が脱いだフランネルの服を着て助かったと述べている。装備さえきちんとしていれば、死なずに済んだ人たちが多かったことは想像に難くない。
さらに、事故後に陸軍大臣の直命で現地入りした田村少佐の報告は、信じがたいものだった。
遭難地付近の地図を進達せしか為め種々捜索しも皆無なり
地図すらなく、付近の地形を詳知する者すらいなかったというのである。また、この行軍ルートの田代平を冬期に超える訓練は行われておらず、岩手と宮城の出身者が大半を占めた隊員たちは八甲田の豪雪に慣れてさえいなかった。軍の上層部には「予行行軍を実施した」と報告されたが、実際には予行行軍とは名ばかりの小規模な編成で、田代平まで行かなかったというのだ。
さらに、目的地とされた田代新湯という温泉は到底見つけることができないような入りくんだ場所にあり、部隊は誰一人として目的地がどこにあるかもわからないまま前進していたようだ。他にも著者が指摘する数々の問題点には、絶句せざるを得ない。
しかし、このような準備不足を、第五聯隊を指揮した神成大尉ひとりの責任にするのは酷である。大尉の上官・山口少佐が行軍に同行して指揮系統が混乱したことも被害を大きくしたし、本書ではこの大惨事の元凶が何であったか明らかにしている。それについては、ぜひ本書を読んでいただきたい。
そしてまた、事故直後に陸軍大臣に上申された大臣報告や、大臣に提出された遭難顛末書といった資料にも、ねつ造や隠蔽を感じさせる数々の矛盾が具体的に指摘されている。
ぶつけどころのない怒りはしばらく鎮まることはなかった。それに加えて判断の無謀さ、訓練錬度の低さ、捜索の遅さ、事故報告の虚偽等にあきれ、斃れていく将兵を憐れみ、幾度となくペンが止まることもあった
では、「行軍を成功させた」とされる三十一聯隊は、どうだったのか? 著者は、五聯隊は露営で食糧や器材もすべて携行し200人規模であったのに対し、三十一聯隊は長距離行程ではあるが38人と少人数、はじめから食事や宿泊は民家に頼り、道案内も頼むという、まったく性質の異なる行軍だったので比較はできないと述べている。
そのうえで、三十一聯隊を率いた福島大尉にも追及は容赦がない。映画では高倉健演じる役名・徳島大尉は、案内人にも異例の敬意を払う(これは原作の小説とも異なる)。しかし現実には、特に過酷な八甲田超えの道案内をさせられた7人の村人たちはさんざん酷使されたうえ、町が見えたとたんにその場に置き去りにされたのである。彼らのなかには重い凍傷になり、後に命を落とした者もいた。
あの雪中行軍は、映画や小説とは異なり、絶望的にヒーロー不在であったのだ。
ただ、小説や映画では悪役となっている山口少佐にも人としては優しいところもあったようで、判断能力を失い「川に飛び込む」と言った小原伍長を戒めた。そしてそれが、行軍の悲劇を後世に伝えることにつながったのである。
ところで、じつは小説『八甲田山死の彷徨』には下地となった資料があった。元新聞記者の小笠原孤酒が生存者の小原元伍長や古老たちを丹念に取材した資料である。新田次郎に依頼されてそれらを無償提供したという小笠原だが、『八甲田山死の彷徨』が瞬く間にベストセラーになり、小笠原自身がノンフィクションとして記した『吹雪の惨劇』はほとんど話題になることもなかった。
『八甲田山死の彷徨』や映画「八甲田山」は小説として映画としては、間違いなく不朽の名作だ。この作品がなければ雪中行軍の悲劇が多くの人に知られ、語り継がれることもなかったかもしれない。だがしかし、小説や映画の完成度があまりに高かったために、あたかもそれが「史実」とすり替わってしまったことには複雑な気持ちが残る。
寒かっただろうな、悔しかったろうな、家族に会いたかっただろうな、遺族もたまらなかっただろうな――想像して胸を痛めながら八甲田の登山用山岳地図を眺めていたら、ふと、第五聯隊が目的地とした田代新湯の近くに「駒込ダム(建設中)」の文字を見つけた。
このダムが完成すれば、おそらく田代新湯は湖底に沈む。第五聯隊が目指し、たどりつけなかったその場所が、本当に「幻の場所」になってしまう日も遠くないということか。組織というものの理不尽や犠牲者たちの無念を思い、やりきれなさはつのるばかりだ。
第1章で八甲田雪中行軍にまつわる怪奇現象を紹介している。
フィクションとノンフィクションの読み比べとしてぜひおすすめしたいのが、上記2点。レビューはこちら。