本書は、世界の喜劇王チャーリー・チャップリンが、75歳の時に出版した自伝 “My Autobiography” の新訳である。日本では、長らく中野好夫氏による、格調高く、かつ翻訳であることを忘れてしまうほど自然な日本語による名訳で親しまれてきたが、なにぶん時代の制約のせいで多少の取り違えもあった。今回、チャップリン没後40年を記念して、また資料が出揃いつつあるタイミングで、若い世代に向けて装いを新たにすることになった次第だ。中里京子氏の新訳も、訳文の厳密さと情感をあわせもった、チャップリンその人の筆使いが感じられる名訳と言えよう。
1952年に『ライムライト』を製作した後、チャップリンは40年間住みそこで映画を作り続けてきたアメリカから、赤狩りのために事実上国外追放にされた。その後はスイスに居を定め、1957年には最後の主演作となる『ニューヨークの王様』を発表。70歳となった1959年には、チャップリン撮影所での初期作『犬の生活』『担へ銃』『偽牧師』を再編集し、みずから作曲した音楽をつけて、『チャップリン・レヴュー』として公開した。初期作を再公開したことで過去を再訪する気持ちになったのだろうか、チャップリンはその頃から自伝を執筆し始める。
四男のユージーンによると、スイスでのチャップリンの仕事ぶりは規則正しいものだった。朝食の後、まるでオフィスに行く前のように妻ウーナにキスをしてから書斎にこもり、昼食とお茶の時間以外はずっと夕方まで作業をした。執筆は、基本的に口述筆記で、秘書にタイプを打ってもらい、それを印字したものをチャップリンが手書きで修正し(彼は必ず鉛筆を使った)、またタイプで打ち直すということを繰り返した。友人が家に来た時には、書いたばかりの原稿を読み聞かせることもあった。
『チャップリン自伝』は、他のハリウッド・スターたちの自伝と違って、ゴーストライターの手を一切借りていない、正真正銘チャップリンの筆によるものだ。監督・脚本・主演はもちろんプロデューサーから作曲に至るまでこなしたチャップリンは、創作の隅々まで自分の手でやることを好んだ。“My Autobiography” という奇妙なタイトル——直訳すれば「私の自伝」——は、究極のワンマンに念を押すような書名だ。ゴーストライターの想像力では幼年期の鮮やかな描写はとうてい不可能であるし、逆にわかりにくい箇所(たとえば、『殺人狂時代』の脚本を見たブレヒトが「中国式に書くのですね」〔本書562頁〕と言った挿話など、どういう意味なのかさっぱりわからない)には、編集者がいれば、説明を加えるように指摘が入ったことだろう。
さて、1964年に『チャップリン自伝』が出版された時、当然のごとく、世界各国で大ベストセラーとなった。
新潮文庫では「若き日々」として出版されている前半生の描写は、ディケンズばりの滲み出るユーモアと心躍らせるドラマに満ちた冒険小説のようだ。19世紀末のロンドンの貧民街に生まれ落ちた少年が、屋根裏部屋と救貧院とを行き来する極貧の生活や、最愛の母の精神の病などの苦難を、しなやかに乗り越えていく。そして、やがて舞台俳優として頭角をあらわし、才能が運と時代を呼び寄せて大スターへの階段を駆け上っていく様は、読むものすべてを興奮させる。本当の極貧を経験したからこそ、チャップリンは「貧困とは、魅力的なものでも、自らを啓発してくれるものでもない」(本書206頁)と、貧苦の時代を懐かしんだりことさら悲劇的に描いたりすることをしない。その代わりに、どんな困難であれ自分の運命を素直に肯定して生き抜く様が書かれている。
チャップリン研究の世界的権威であるデイヴィッド・ロビンソンが、「若き日々」の序文に書いている通り、チャップリンは資料を見ずに、ほとんど自分の記憶だけをたよりに本書を書いたのだが、その記憶力は驚くべきもので、後の研究者が資料に基づいて検証するとたいていの場合、『自伝』の記述の正しさが証明されている。とりわけ、生い立ちを反映してか、細かい金額についての記述は極めて正確で、例えば、幼い頃に兄シドニーからもらった仕送りの金額が、チャップリンの死後に発見された船会社の伝票と完全に一致したといった具合だ。また、この手の自伝には珍しく、(取捨選択されているものの)書いている内容にとんでもない創作がないのも、彼の誠実さを反映している。ただし、近年の研究で、青年期に舞台に立った年齢については、半年から一年半程度早く書かれていることがわかっている。今更そんな必要もないのに、自身の早熟さを印象付けようとしたのだろう。なんとも微笑ましい話だ。
筆舌に尽くしがたい人生の困難をどこか楽しげに描いた前半に対して、新潮文庫では「栄光と波瀾の日々」と題された後半生は、未曾有の世界的成功の行間に孤独がにじみ出る。ただし、当時の批評家たちの中には、前半には熱烈な賛辞を送ったが、後半には落胆を表明するものも多かった。
というのも、後半の記述は、著名人との交遊にその大半が費やされていて、誰もが知りたい映画製作の裏話がほとんど書かれていない。むろん、20世紀史の生々しい記録としては無類に面白いし、時折挟まれる演技論や舞台の名優についての記述は貴重である。ただ、大部分は偉人カタログのような趣になっている。つまりは、「ロンドンの貧民街から這い上がり、今やこんな有名人と交流できるようになりました」とばかりに底辺から身を立てた喜びを無邪気に表明しているわけで、本書の登場人物のなかで彼自身がもっとも有名な人物であることを、本人だけがわかっていないのだ。
映画作りの内実が書かれていない理由は簡単で、まだ彼が現役の映画人としてアイディアでいっぱいだったからだ。「映画界はなんでも盗んでしまうからね」というのが彼の口癖だった。
実際、本書の出版後も、チャップリンは旺盛に創作活動をしている。1967年に最後の監督作となった『伯爵夫人』を発表し、興行的には成功しなかったものの主題歌が大ヒットを記録。さらに、かつてのサイレント映画に自作の音楽をつけて再編集し、1970年代に「ビバ!チャップリン」と銘打って再公開すると、世界的なリバイバル・ブームとなった。この時に、配給会社がチャップリンに支払った前金の500万ドルは、日本一国の売り上げで元を取ったという。1972年にアカデミー特別名誉賞受賞のために20年ぶりにアメリカを訪れたのは、新作の撮影に必要な最新の機材が見たかったという理由が大きいし、1975年にイギリスでナイトに叙された時には「もう一本映画を作ります」と宣言している。その年に、かつて監督に徹して作り上げたメロドラマ『巴里の女性』の音楽を作曲したのが、結果的には80年に及ぶ創作活動の締めくくりとなったが、最後の公の発言は、亡くなる一年ほど前の声明「仕事をすることは生きること。私は生きたい」だった。チャップリンは最後まで現役だった。
映画作りの内幕が書かれていない理由はもう一つある。裏話を書くと、魔法の種明かしのように、作品の面白さが消えてしまうと彼は考えていたからだ。さらに言うと、そもそもチャップリンは苦労話をするのが好きではなかった。本書には、『街の灯』での放浪紳士と盲目の娘との出会いのシーンについて、「気のすむまで何度も撮り直したため、結局5日間もかかってしまった」(332頁)と、そこにのべ一年かけた苦労をなぜか矮小化している。『独裁者』の撮影についても、その製作に559日間を費やしたことや、アメリカ当局や各新聞が激烈な妨害キャンペーンを展開したこと、さらにはイギリス政府から製作中止を求める役人が撮影所まで来たことなど、数々の困難は書かれていない。そして、実のところ、興行収入の記録などの破格の成功の記述も控えめだ。
そう考えると、本書は、老年に達してから過去を振り返ったものというより、ロンドンっ子の率直さと無邪気な虚栄心、現役映画人の自負と迷い、苦闘を知られたくない自意識、成功を引けらかすことを良しとしない慎み深さなどが、矛盾をはらみつつ素直に刻まれた一冊とは言えまいか。
ところで、チャップリンは、映画作りにおいて、納得のいくショットが得られるまで、何度も撮り直した完璧主義者として知られている。保管されているNGフィルムを見ると、彼が何を捨てて何を残したのかがわかる。捨てたアイディアから、彼の思考回路が推測できるというわけだ。
実は、彼は自伝の執筆の際も、同じ作業を行なった。チャップリン家の資料庫には、『チャップリン自伝』に使われなかった草稿が多く保管されているので、自伝執筆時の彼の構想の移り変わりをある程度たどることができる。なかでも、序文として使うつもりだった文章は興味深い。
その「幻の序文」は、次の文章から始まる。
最良の自伝においてさえ、書き手がどれだけ自身と読者に率直で正直でありたいと思ったとしても、それは要約に過ぎず、自身に良いものを与えたいという欲望に導かれて簡略化されるのだ
この部分は、ある意味、至極当然のことを言っているのだが、その後に、「ギロチンの横に座って首がころがるのを見ている魔女たちには、完全に彼女ら独自のストーリーがある」と続けているのを読むと、冷戦時代に赤狩りの狂気の標的とされ、さんざん悪評を捏造されてバッシングを受けた傷がまだ癒えていなかったことがわかる。序文は「いかなる道徳規定よりも私の自我が人生を編集する。そして、それを恥じ入ってやめることもしない。というのも、私は私自身と生きなければならないのだから」と締めくくられているのだが、かつて根拠のない攻撃を繰り返したアメリカのジャーナリズムに対する挑戦の言葉のようにも、あるいは諦めの言葉にもとれる。
しかし、チャップリンは、この怒りと絶望に満ちた序文を破棄して、かわりに世紀の変わり目の輝くばかりに美しいロンドンの描写から始めることにした。そして、反共ジャーナリズムから受けた傷なんかよりも、もっと本質的な傷——すなわち、最愛の母を助けてあげられなかった根源的な後悔を序文に持ってきた。
『ライムライト』のヒロインのクレア・ブルームから聞いたことだが、当時62歳のチャップリンは彼女の衣裳を、「母はこんな服を着ていた。(初恋の)ヘティはこんなスカートを穿いていた」と言いながら選んでいたという。最愛の母を助けてあげられなかった悔恨と初恋の人に想いを伝えられなかった痛み、そのことに対する償いのような気持ちが彼を動かしているのかと想像して、クレアは胸がいっぱいになった。
チャップリンが怒りの序文をやめて、愛する人への果たせなかった想いから始めたのは、やはり正しい、チャップリンらしい判断だったと思う。どれだけ成功しても癒えなかった傷はチャップリンを支配していた。しかし、彼の生とは、痛みや怒りではなく、それを乗り越える大きな愛と笑いを世界中に与え続けた88年だったからだ。
それゆえに、本書のラストシーン——映画の青春時代を共にしたエドナ・パーヴァイアンスへの追憶と妻ウーナへの「完璧な愛とは、あらゆるフラストレーションのなかで、もっとも美しいものだ。なぜなら、それを表現するのは不可能だから」(本書678頁)という限りない感謝の念、「世界はわたしに与えうる最上のものを与えてくれ、最悪のものはほとんどもたらさなかった」(本書677頁)と人生を肯定しつつ、雄大な山並みとレマン湖の情景に浸る様子は、それがどれだけの苦闘と葛藤を乗り越えた末の境地だったかと思うと、なおのこと深い感動に包まれる。あの、著名人たちとの交遊の無邪気な自慢話でさえ、私には愛おしく思えてくる。それは自伝としてはあまりに下手くそで、しかしありえないほど率直な想いの吐露であり、そんなところも含めて私たちが大好きなあのチャップリンだからだ。「父は私たちに人生とは素晴らしいものだということだけを教えてくれました」と次女のジョゼフィンは言う。娘の記憶のなかの、父の口癖は、「人は優しいものなんだよ。だって、風でお前の帽子が飛んでしまったとしたら、後ろの誰かが拾ってくれるだろ?」だった。その人生を思うと、なんと力強く美しい言葉であろうか。
チャップリンは最後に、『フリーク』という作品を作ろうとしていた。羽の生えた少女が、新興宗教の教祖に祭り上げられ、しかしある事件に巻き込まれてからはバッシングを受けて大騒動になるという、現代的なテーマを持つファンタジーにして彼自身の生涯を思わせるストーリーだ。そのラストで、羽の生えた少女は本当の自由を求めて飛び上がるも力尽きて海に落ちてしまう。チャップリンは、「人間の魂は翼を与えられ」ていたという『独裁者』のラストの演説の通り、最後まで羽ばたくことを夢見ていたのだ。本書も、人生を締めくくろうとしている人の文章とはとうてい思えない。今を生きるクリエーターの葛藤や矛盾と夢に満ちている。そして、矛盾と夢に満ちたあの放浪紳士のキャラクターも、いまだ自由な足取りで歩み、私たちに温もりに満ちたユーモアを与え続けてくれている。
(2017年11月、脚本家・日本チャップリン協会会長)