既に十分すぎるほどのオマージュを集めてきたカラヴァッジョ、17世紀以降の西洋絵画に絶大な影響を与えた稀有な天才について、今更、何かを書き加えることがあるのだろうか。そう思う人は、ぜひ、本書を紐解いて欲しい。
優れた作家が、周知の事実や数多の論及、古くからの評伝や長大な解説書など膨大な文献の洪水の中から、まるで魔法のように明確な輪郭を持ったシンプルで読みやすいコンパクトな物語を紡ぎ出すのを見れば、誰しも感嘆する他はない。カラヴァッジョの波乱に満ちた生涯を描ききった決定版の登場である。
著述方法は、いたってシンプルだ。生誕から死亡までカラヴァッジョの人生を時系列で辿っていく。ミラノを出てローマに現れるまでの4年間は空白で何も分かっていない。絵画の解説も然り、同様に時系列で、人生の歩みとともに絵画が変貌していくことが淡々と語られる。
それなのに、なぜ、読んでいてこんなにもワクワクするのか。なぜ、ページを繰るのがもどかしく感じられるのか。なぜ、カラヴァッジョを身近に感じ、なぜ彼の絵画の理解者になった気がするのか。すべては、熟達したペンの素晴らしい力のなせる技なのだ。
カラヴァッジョは、何よりも不朽の名声を求めていたが、時代は反宗教改革のうねりの中にあった。ルネッサンスの巨匠たちの模倣から出発したダルピーノのマニエリスム。カラッチの崇高な理想主義。カラヴァッジョはたった一人で「自然のまま」を模倣する第三の道を切り開き、瞬く間にローマで成功への階段を登り始める。カラヴァッジョの絵は道ばたで見かける日常生活のひとこまを切り取ったものに過ぎないのに、ローマの上流階級は競って彼の絵を欲しがり大金を投じた。
カラヴァッジョの家財道具等目録が残されているが、そのお金は何に使われたのか、実はよく分からない。カラヴァッジョのローマでの縄張りは100メートルあまりの1つの街路区。そこに暮らす者は全員が顔見知りという小さな区域で、カラヴァッジョのきらめく画業が円熟していくのである。傑作「ロレートの聖母」のモデルは馴染みの娼婦。彼の宗教画は、激しい挑発であると同時に回心への明快なメッセージでもあった。
絶頂期に殺人事件に巻き込まれたカラヴァッジョは、ナポリへ、次いでマルタへと逃亡する。彼が特異な犯罪者だったわけではない。当時のローマでは、ごくありきたりの揉め事だったのだ。名門コロンナ家など庇護者のネットワークが逃亡を助ける。
そして逃亡先でも多くの傑作をものにする。最後の2年間、カラヴァッジョは、伝統的なしがらみから解放され、彼のもつ活力と比類なき表現力を意識しながら、思い切って非現実的概念の限界で表現しようとして、幾何学的な遠近法など巨匠たちが固めてきた絵画表現の規則を大混乱させた。
カラヴァッジョは、生涯、弟子を持つことはなかったが、模倣者(カラヴァッジェスキ)の群れが彼の芸術を永遠の高みに持ち上げた。著者はレオナルド・ダ・ヴィンチの評伝(「レオナルド・ダ・ヴィンチの秘密」)も書いているが、このシリーズは新しいヴァザーリの誕生を予感させる。次作が楽しみだ。