著者は舞踏家の麿赤兒(まろあかじ)。劇作家である唐十郎の状況劇団に参加し、それから土方巽に師事した。その後に舞踏集団「大駱駝艦」を立ち上げ、国内外に舞踏を知らしめた人物だ。
舞踏は日本で発祥した半裸で踊るスタイルだが、疾走する身体というよりむしろ動かなかったりする。一見、死を匂わせる静止した肉体かと思いきや、いきなり生に執着する表情をとり、口を全開させ呼吸音が観客の胸まで響く。その支離滅裂な行為にどんどん引き寄せられ、観ているうちに常識という感覚も麻痺してくる。
大駱駝艦の中でも名演とされる「海印の馬」に足を運んだことがあるが、初めて観る舞踏―剃髪し白塗りする裸体の異形な舞台―に「なんじゃこれは⁉︎」とのけぞった覚えがある。しかし上演して5分もたたないうちに、その演者の目つき・うめき声・うごめく様に惹きつけられた。怖いものや情報を判断して、確認していくうちに舞台が終了。自分の身体が自由であることの解放感を味わえた。
このような舞踏家の自伝とあるので本書は敷居が高いように思えるが、全くそんなことはない。喧嘩に明け暮れた70年代のアングラ時代から、高く芸術表現を評価される現在までをユーモアを交えて綴っているが、むしろ気軽に楽しめるエンターテインメントになっている。
本人が役者のため、語る口調はあくまで芝居的観点だ。そのため著者の視点ではちょいちょい現実と虚構が入り混じる。喧嘩や口論などトラブルすら、すべては演じるイベントのように楽しんでいる。「第5章 王道外道北海道、金粉舞い散る集金旅行」(タイトルの言い回しが楽しい)では、支払いが滞っている会社から金を回収しないと筆者自体が野垂れ死ぬというのに、わざわざ取り立てる状況を日活映画風にしたり、いやそれならばキザっぽくなるため東映仁侠映画路線でいこうなどと、いちいち劇中シーンとキャスティングにまでこだわってしまう。
たとえ喧嘩で刑務所に入ったとしても、詩を吟じて虚無感を表現することもあり、どんな状況にありながらも演者として真摯に生きる姿は、読んでいて心地がよい。
もちろん著者はいわゆる「生きるために稼ぐ」などという価値観ではない。純粋に人生をかけて麿赤児を演じている表現者だ。そこにはもちろん苦悩や葛藤など、人間としての負の面も当然襲ってくる。それを恥ずかしくもなくさらけ出す。この内容には人間が生来もっている悩み、苦悩を乗り越える真摯な姿勢が書かれている。
本書は文庫版のため運びやすいサイズである。重ねて言うが、自伝らしくないエンターテインメントに昇華されている。読者は最後まで読み終えた後、きっと人生に対して前向きになれるだろう。 爽快感のある現代の喜劇本。
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