強力なテクノロジーにはイノベーションの機会が二度訪れる。まずは登場したとき、そして次に普及したとき。WEBなど、その最たるものだろう。 インターネットという技術の登場はたしかに大きな変化をもたらしたが、今振り返れば、スマホの普及によって「いつでも、どこでも、誰にでも」使えるようになったことも、同じように大きなインパクトを持つ出来事であった。
本書のテーマとなっている「CRISPR(クリスパー)」という技術も、同様の性質を持っていると言えるだろう。「CRISPR-Cas9」という遺伝子編集ツールを用いれば、ゲノムをまるでワープロで文章を編集するようなイメージで、簡単に書き換えることができるのだ。
たとえば科学者はCRISPRを用いて、遺伝子の塩基配列をたった一文字変えるだけで、シュワルツェネッガーのような筋肉ムキムキの遺伝子強化ビーグル犬をつくり出すことができる。最近ではブタの遺伝子を「ヒト化」する実験も行われており、動物の臓器を人間に移植する、異種間移植の実現が期待されている状況だ。
どんな細胞のどんな遺伝子も標的化、切断、編集できるCRISPRという技術。その魅力は「魔法の杖」のような能力と応用範囲の広さにあるわけだが、それだけではない。二段ロケットのように用意されたもう一つの魅力は、低コストと使いやすさだ。
CRISPRの技術をベースとしたDIY遺伝子編集キットを生産・販売するというベンチャー企業は、クラウドファンディングでも人気を集め、7万ドルを超える金額を集めた。ユーザーは、わずか130ドルの寄付で「自宅で高精度なゲノム編集を行うために必要なすべて」が得られるという。しかもこの「魔法の杖」は、高校生でも扱えるような手軽さなのだ。
本書は、このCRISPRを開発したジェニファー・ダウドナ博士が、手に汗握るような開発秘話から遺伝子編集のメカニズム、そして未来へ向けての示唆までをまとめた貴重な手記である。惜しくも2017年のノーベル化学賞を逃した彼女だが、近い将来での受賞は確実視されており、今最も注目すべき科学者の一人と言えるだろう。
CRISPRの開発物語は、画期的な発見が思いもよらぬ場所から生まれることを教えてくれる。彼女は元々、動物のウイルス感染の防御としてのRNA干渉を専門にしていた。後にCISPRと呼ばれる「細菌がウイルスに感染しないために持っている免疫システム」の研究を始めたきっかけは、見知らぬ研究者からの誘いによるものであったというから、まさに偶然の産物だ。自然界の理解を目的とする基礎研究への好奇心が人の縁に支えられ、人類の未来を変えるような新技術へとつながったのである。
彼女はこの技術に、遺伝子編集プラットフォームとしての可能性を見出す。ペンチャーキャピタルから資金を調達し、外部の研究室とアライアンスを組み、プロジェクトを任せるリーダーを選び、医療ベンチャーも起こす。競争と協力を巧みに使い分けながら物事を推し進めていく様は、まるでスタートアップ企業のCEOのようだ。
そして、後半はこの強力なツールがもつ二面性を、様々な観点から検証していく。先行事例としては、遺伝子組換え植物のケースがある。これまでにも人間は植物のDNAにランダムな変異を起こし、有用なものを選んで繁殖させてきた。私たちの食べるほとんど全てのものは、既に人間の手によって変えられており、「自然」と「不自然」の境界線はあいまいなのだ。その状況を踏まえれば、これは「最終産物をとるか、プロセスをとるか」という問いに着地するだろう。
だが最も悩ましいのは、CRISPR技術でヒト生殖細胞系を編集することの是非である。この技術が遺伝子改変を導入するために使われ、人間の遺伝子構成を永久的に変えてしまう日が来ることは想像に難くない。だがこれには「自然の法則」や「神の掟」の侵害ではないのか、そしていつの日か優性学につながってしまうのではないか、といった懸念がつきまとう。一方で、人間の苦しみを和らげるために生殖細胞系を編集しないこと自体が非人道的ではないかという考え方も散見する。
彼女自身は、生殖細胞系の遺伝子編集がもたらしうる問題について「今よりずっと注意深く検討がなされるまでは、差し控えるべきだ」と考えている。根底には、科学と技術は社会のしもべであるべきというポリシーがあり、私達の世界にとって何が正しく、何が適切かを思い描くのは、科学の仕事ではなく、民主主義の仕事であると説く。
本書で読むべきは、彼女がどのように考えたかということだけでなく、どのようなアクションを行ったかという点にもある。セミナーや会議で研究発表する合間を縫い、人の遺伝子編集に関する国際サミットを共同開催し、社会科学者や政策立案者、宗教指導者や一般市民に及ぶ様々な相手と対話を繰り返し、共通のコンセンサスを得る。そこにあるのは、核兵器の轍は二度と踏まないという強い覚悟だ。
本書を通じて、読者は旧来の科学者のイメージを大きく覆す、新しい科学者像というものを目の当たりにすることが出来るだろう。良きリーダーであり、良き研究者であり、良き論客でもある。発見のフェーズを鮮やかに駆け抜け、普及のフェーズでは何世代も先の未来を見据えて苦悩しながら立ち止まる。その動と静が、余すところなく収められている一冊だ。
CRISPR技術の開発によって一躍脚光を浴びるであろうジェニファー・ダウドナ。だが、彼女のもう一つの偉業の意味が真に理解されるのは、何世代か先のことになるのかもしれない。